アクティブシニアのための心臓病読本

第 2 章 心 臓

田原はドイツ留学時代(1903~1906)に心臓病の病理学研究を始めまし た。その過程で、心房と心室の移行部に、それ以前に発見されていたヒス束 (1893)とは異なった特殊な細胞群を発見し「房室結節」と名付けました。ヒ ス束を組織学的にたどっていくと心室隔壁のこれまた特殊な筋細胞群(左脚・ 右脚:田原の発見)に繋がっていることを、そしてさらに左脚が左心室筋の特 殊な組織:プルキンエ線維(1845)に、右脚が右心室筋のプルキンエ線維に繋 がっていることを発見しました。ヒス束もプルキンエ線維も発見当時はその機 能や役割など全く不明でした。田原は、ヒト、ヒツジ、ウシなどで自ら発見し た心房心室間特殊組織(房室結節)から特殊筋ヒス束、左右心室の隔壁にある 左脚・右脚(田原発見)、左右プルキンエ線維にかけ細胞が密に繫がっている ことを組織学的に証明し、心房で起こった刺激が田原結節、ヒス束、右脚・左 脚、プルキンエ線維を通り心室筋に伝わるものと想定し、これを「心臓の刺激 伝導系」と名付けました(1906)。田原の発見にヒントを得たキース・フラッ クは1年後に心拍起原となる洞房結節を発見しました(1907)。 驚くべきことに田原はあの時代(1906)に、房室結節(田原結節)の刺激 伝導速度は遅く、これが心房と心室の収縮時間差を作っていること、またヒス 束、左脚・右脚、プルキンエ線維の伝導速度が速いことを組織学的特徴から予 測していました。 一方、オランダの生理学者、アイント-ベン(Willem Einthoven)は心臓が 拍動する毎に規則正しい電流の波が起ることを弦線電流計で記録することに成 功し(1903, 1908)、その波をP,Q,R,S,Tと記しました。しかし、波の起原や意 味はわかりませんでした。田原の「刺激伝導系」の発見とそれに続く洞房結節 の発見によりP,Q,R,S,Tの意味付けが始めて出来るようになり、「心電図」とし て心臓病の診断にも応用されるようになりました。この業績によりアイントー ベンにはノーベル医学生理学賞が授与されました(1924)。その後心電計の改 良により精密な記録が出来る様になり、また心筋の電気現象の解析により、現 在の心電図記録、心電学に発展してきました。このように、田原淳の発見は、 心電学の発展のため、そして現代のペースメーカーの発展のためにも大きな役 割を果たしたのです。ノーベル賞級の発見と言われるゆえんです。 トリビア ❷ 田原 淳の「心臓の刺激伝導系」発見の意義 田原 淳(1873~1952) の簡単な経歴です。大分県東国東郡に生まれました(旧姓:中嶋)。大分県中 津で開業の医師、叔父にあたる田原春塘の養子になります。1901(明治34)年東京帝国大学医学部卒。 1903~1906年ドイツMarburg大学病理学のAschoff教授の許に留学し心臓病の病理学研究を始めまし た。その研究過程で大変な努力の結果発見した房室結節、左脚・右脚、そして彼以前に発見されていた ヒス束、プルキンエ線維を含め、その役割を組織学的知見に生理学的思考を加えた画期的とも言える世 界的名著:「哺乳動物心臓の刺激伝導系」を単行書として発刊しました(1906)。帰国後(1906)、直ち に九州帝国大学(現在の九州大学)医学部病理学教授に招かれ1938年まで務めました。

のし

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