アクティブシニアのための心臓病読本
アニメーション効果付き出版物
アクティブシニアのための 心臓病 読本 わかりやすい教科書
原土井病院 顧問・福岡大学名誉教授 今永一成
丸山 徹 原土井病院 副院長・九州大学名誉教授
原 寛 原土井病院 理事長
はじめに 日本は65歳以上の高齢者人口が、約3600万人と総人口に占める割 合が30%近くとなり、過去最高記録を更新するという世界一の『超 高齢社会』です。 また、日本人の平均寿命は男性81.25歳、女性87.32歳といずれ も世界トップ水準です。しかも90歳以上の人口は231万人、100歳 以上の「百寿者」は、59年前の1963(昭和38)年には僅か153人 だったのが、今や9万人に届くほどの『超長寿社会』でもあります。 このように「人生100年時代」に突入した日本で、いま現代人はい かに健康長寿を全うするか、その課題を突きつけられています。しか も生活習慣病、ストレスを抱える私たちにとって、いま求められてい るのが正しい養生術ではないでしょうか? そこで改めて注目されて いるのが、約300年前の江戸中期に出版された貝原益軒の「養生訓」 と105歳まで生涯現役を貫かれた日野原重明先生です。 私は益軒が養生訓を書いた歳と同じ83歳になったのを機会に、本 格的に養生訓の研究を始めまして現在は90歳になりました。養生訓 の中には、今の高齢社会に通じる内容がいくつもあり、その考え方を 活かして現代医学の主流にすべきと考えています。しかも高齢になる と最後は心不全で亡くなる方が多いのです。そのためにライフスタイ ルの見直し・生活習慣の改善が重要です。 今回、九州大学名誉教授 丸山徹先生、福岡大学名誉教授 今永一成 先生にわかりやすい教科書を書いて頂きました。健康長寿を目指す 方々に一人でも多く読んで頂き、かつ実行して頂きたいと強く願って います。 2022年10月吉日 原土井病院 理事長 原 寛
Contents 第 1 章
高齢者の食事と運動 9 原土井病院 理事長 原 寛 先生
1 「団塊の世代」今年から75歳に 10 2 生活習慣病は過去の悪習慣から起こる 11 3 私が食事で実践していること 12 4 運動のさまざまな効果 15 5 まとめ 17 第 2 章
心臓のしくみとはたらき 19 原土井病院 顧問、福岡大学名誉教授 今永 一成 先生
1 心臓の形 20 2 心拍の起原と心拍数 22 3 心臓の刺激伝導系 25 4 心筋の収縮 27 5 心拍出量(分時心拍出量) 29 6 心臓への栄養補給 32 7 ホルモン分泌 33 8 まとめ 34
1 筋肉のはたらき 40 2 サルコペニア 42 3 ロコモとフレイル 43 4 骨粗しょう症 46 5 高齢者の嚥下機能 47 6 まとめ 52 第 3 章 高齢者の身体機能 39
1 心筋梗塞 56 2 心不全 60 3 不整脈 64 4 心臓弁膜症 67 5 心臓病とリハビリテーション 69 6 まとめ 71 第 4 章 高齢者の心臓病 55
1 ペースメーカー 76 2 植え込み型除細動器 78 3 心臓再同期療法 80 4 心臓用デバイスと日常生活 81 5 まとめ 84 第 5 章 高齢者のデバイス治療 75 第 6 章 腎臓と心臓の複雑な関係 87 1 腎臓のはたらきを調べるには 88 2 CKDとは 88 3 心腎連関とは 89 4 まとめ 91
1 心臓はがんになりにくい? 94 2 抗がん剤による心不全 95 3 がん、抗がん剤と不整脈 97 4 がんと血栓症 99 5 まとめ 100 第 7 章 がんと心臓病の意外な関係 93 1 ポリファーマシーの原因 104 2 ポリファーマシーの現状と対策 107 3 まとめ 108 第 8 章 ポリファーマシーとは? 103 第 9 章 コロナで気を付けたいこと 109 1 新型コロナウイルスと心臓 110 2 心筋梗塞 111 3 心不全 112 4 心房細動 113 5 高齢者へのワクチン 115 6 まとめ 116
参考文献
117
おわりに
120
トリビア
わが国の結核罹患率 サプリメントの利用法 食後高血糖と食べ順健康法 サーチュイン遺伝子とは
18 18 18 18 34 35 37 37 38 52 53 53 72 72 72 73 73 85 85 85 91 92
ヒトの心拍数
田原淳の「心臓の刺激伝導系」発見の意義 心筋細胞における隣接細胞間結合―ギャップ結合
筋血流量
心臓の栄養素
筋肉が出すシグナル
サルコペニア・フレイルでの食事
サルコペニアと糖尿病 高齢者の心筋梗塞 ふたつのタイプの心不全 心不全の緩和ケア ヒトの心拍数と寿命 腸内フローラと病気 遠隔モニタリング 緩和医療と終末期医療
終末期における除細動機能の停止 eGFR値が必要になった背景
加齢とeGFR値
心筋細胞も生まれ変われる?
101 101 101 108 116
ハイパーサーミア がんサバイバーとは 薬物有害事象とは
新型コロナウイルス感染症と認知症
第 1 章 高齢者 の 食事 と 運動 原土井病院 理事長 原 寛 先生 …
わが国は超高齢化社会となり長寿時代を迎えています。 令和3(2021)年版の高齢社会白書によりますと65歳以 上の高齢者人口は3,619万人(全人口の28.8%)を超え て過去最高を更新しました。高齢者にとって健康は最大の 関心事です。最近、健康寿命という言葉をよく聞きます。 健康寿命とは介護の必要がなく自立して生活できる年月の ことです。生物学的な寿命から健康寿命を引いた年月は、 寝たきりで介護を受けざるをえない年月となります。健康 寿命をできるだけ長く保ち、ポストコロナ時代をアクティ ブシニアとして元気に過ごすためには、食事と運動が何よ り大切です。
「団塊の世代」 今年から75歳に わが国では戦後のベビーブームで1947~1949年の3年間で約800 万人が誕生しました。年間の出生数は約270万人で、現在の3倍以 上です。この時代に生まれた「団塊の世代」の方々が2022~2024 年に順次75歳を迎え始めます。このため75歳以上の人口は今後3年 間、毎年約4%ずつ増えていくことになります。これにともなって、 医療や介護の現場を担う職員の人手不足が深刻になります。また同時 に医療や介護、福祉に必要な費用も急増することになり、制度の持続 可能性が大きく揺らぎかねません。都市部を中心に「介護難民」が現 れる可能性も指摘されています。社会保障制度上で「2022年危機」 という言葉があるのはこういう事情によると考えられます 図1 。 1
図1 2022年危機
総 額
必要となる介護職員数 ※厚生労働省推計
200 兆円
188.2兆 ~190.0兆円
2019年度
211万人
子育てなど 22.5兆円
(実績)
総 額
介護 25.8兆円
243万人
25年度
140.2兆 ~140.6兆円
150
32万人増
2019年 消費税10%に
2008年 75歳以上が加入する後 期高齢者医療制度始まる
介護 15.3兆円 子育てなど 17.7兆円
280万人
40年度
2000年
69万人増
医療 66.7兆 ~68.5兆円
介護保険始まる
100
医療 47.4兆 ~47.8兆円
1994年、2000年 60歳だった厚生年金の支 給開始年齢を65歳まで段 階的に引き上げる法改 正。団塊世代は60歳から は部分年金だけの支給に
50
1961年
1973年 田中角栄内閣の 「福祉元年」政策 で給付が拡充
年金 年金 73.2兆円
国民年金と国民健康 保険の創設で国民皆 年金・皆保険体制に
社会保障給付費の推移と将来推計 ※2019年度までは国立社会保障・人工問題 研究所の統計、将来推計は厚生労働省
59.9兆円
0
25 (推計) 40 (推計)
1950 年度 55 60 65 70 75 80 85 90 95 2000 05 10 15 19
※2021年12月19日付読売新聞を参考に制作
10
生活習慣病は 過去の悪習慣から起こる
第 1 章 高 齢
2
者の
食
事
と
運
動
日本は戦後、医療の進歩や公衆衛生の増進、社会福祉の向上などで 結核などの伝染病や栄養失調で亡くなる人は大きく減りました。ちょ うど2022年、わが国は結核の中まん延国から低まん延国となりまし た トリビア❶ 。高度経済成長にともなって食べ物への欲望を簡単に 満足させることができるようになりました。お金を払えば好きなもの をいくらでも食べられるようになりました。その結果、糖尿病や心筋 梗塞が急速に増えていきました。文明や経済の発展が、必ずしも人を 幸福にしない、という現実を私たちは突きつけられました。当時、糖 尿病や心筋梗塞を総称した「成人病」という呼び名が広がりました。 最近では未成年でも立派な「成人病」の人はいます。そこで、「成 人病」をもっと分かりやすく「生活習慣病」にすることを主張された のは、日野原重明先生でした。これらの病気は、年齢を重ねると誰で もなる病気ではなく、過去の良くない生活習慣によってなる病気だか らです。良くない生活習慣とは、間違った食事のとり方や喫煙、アル
コールの飲み過ぎ、運動をしないこ となどです。良くない生活習慣を続 けても直ぐに生活習慣病になるわけ ではありません。糖尿病や高血圧、 脂質異常症は健康診断で見つかって も症状のない方がほとんどです。し かし10年20年とたつうちに動脈硬 化を引き起こして、突然に脳梗塞や 心筋梗塞が起きるわけです。生活習 慣病がサイレントキラーと言われる 理由はこういうところにあります。
11
私が食事で 実践していること
3
高齢者にとって体にいい食べ物やサプリメント トリビア ❷ など の情報は迷うくらい出回っていますが、私が一番こだわっているのは 食べる順番です。サラダなどの生野菜を最初に食べてある程度おなか を満たします。ベジタブルファーストです。おかずは肉か魚にこだわ らず、タンパク質を摂ります。納豆や卵は安くて栄養価が高いので欠 かしません。ご飯は白米を避けて、麦飯や五穀米を少量食べます。野 菜 ➡ 味噌汁 ➡ 主菜 ➡ ご飯の順で食べると食後の血糖値が急上昇する のを抑えることができます トリビア ❸ 。 食後高血糖は、別名血糖値スパイクともいわれます 図2 。食前の 血糖値は正常ですから健康診断では異常を指摘されません。しかし食 事のたびに食後高血糖が起きると、膵臓はインスリンを過剰に分泌し て血糖値をコントロールしようとしますから、やがて膵臓は疲れてし まい、糖尿病が生じてしまいます 表1 。食後高血糖を防ぐには食べ る順番へのこだわりと、ていねいによく噛んで食べることです。早食 いと荒咬みは血糖値スパイクの元凶です。ベジタブルファーストで食
図2 血糖値スパイクとは、ジェットコースターのように血糖値が 急上昇及び急降下すること
インスリン分泌 ⬇
血糖値
インスリン分泌 ⬇
インスリン分泌 ⬇ 急降下
食後高血糖
急降下
急降下
眠気
急上昇
急上昇
急上昇
集中力低下 空腹感
反応性低血糖
脂肪蓄積 脂肪蓄積 脂肪蓄積
食事時間
朝食
昼食
夕食
12
表1 血糖値スパイクはなぜ恐ろしいか?
第 1 章 高 齢
後高血糖を防ぎましょう。 また腸は食べ物を消化吸収するだけではなく、からだの免疫を維持 するうえで重要な臓器であることもわかってきました。腸に疲れを貯 めない食物繊維の豊富な長寿食を紹介します 図3 。腸がからだの免 疫に関係するのは腸内細菌によるところも大きいようです。腸内細菌 には善玉菌、悪玉菌、日和見菌がバランスをとって生息していますか ら、わたしたちは善玉菌を増やして腸がよろこぶ食事を毎日とる習慣 を付けたいものです。 水分は食事中以外でもこまめに水、お茶、コーヒーなどを飲んでい ます。高齢者はとかく脱水傾向になりやすいものです。緑茶には抗 酸化作用があり、近年健康上の効果が多数報告されています。洋食 や中華は週に2~3回に抑えて、1汁3菜の和食を中心に腹八分で摂っ ています。決して満腹になるまで食べないことがコツです。そうす ることで細胞の老化を遅らせて免疫の働きを正常化する長寿遺伝子 トリビア ❹ を活性化させることができます。バランスの良い和食中 心の食事を適量摂る食生活を続けることは、長寿遺伝子のスイッチを オンにすることにもつながります。 ■インスリンの過剰な分泌を強いられて、膵臓が疲弊する(やがて膵臓が疲弊して 血糖値スパイクに対応できなくなり、食後高血糖から常時高血糖・尿糖出現へ) ■インスリンの血糖降下作用以外の悪い側面(内臓脂肪の蓄積・体重増加・動脈 硬化など)がでる(インスリンは基本的にいわば「肥満ホルモン」)。 ■絶えず血管が血糖の大波でダメージを受ける ■自覚症状がない場合が多い ■血液検査のHbA1cに反映されにくい ■持続的な血糖モニターでなければ検出できない ■食後に反応性低血糖(異常な眠気、体のほてり、だるさ、手指の震え、発汗、不 安、動悸など)を起こすことがある
者の
食
事
と
運
動
13
図3 おすすめ長寿食は“コレ”!!
ネバネバ3兄弟 腸内細菌のエサとなるのは、主に水溶性の食物繊維で す。たくさんかき混ぜていっぱい糸を引かせた納豆に、ヤ マイモ、オクラ、モロヘイヤ、メカブなどのネバネバ食材を 2つ加え、醤油で味つけするだけの簡単料理です。この「ネ バネバ3兄弟」を小鉢に山盛りにして、毎日食べると、腸は とても元気になります。
「便秘は万病のもと」といわれます。腸の健康度は、毎日決 まった時間に排便があるかどうかで、そして大便の形状でも 知ることができます。便秘の解消には手軽で即効性がある「モ ズク酢」です。お酢の酢酸には、小腸をさっと活気づける作用 があります。同時に、モズクに含まれる豊富な水溶性食物繊維 が、腸内細菌のエサになります。「酢酸+水溶性食物繊維」の コンビネーションは、小腸から大腸までを連携して元気にして くれるのです。パック入りモズク酢も活用してもいいですが、理 想はお酢と醤油とモズクをあえるだけの手づくりです。 モズク酢
活性酸素は、私たちの体の細胞や各組織を「酸化」させま す。細胞の酸化が加齢とともに進むことで、細胞はもとの働き を十分に行えないほど劣化し、内臓や組織の働きを衰えさせ ます。ですから、酸化を防ぐ食品̶ 抗酸化力の強い食べ物をと ることが大切です。何よりもおすすめなのがトマトです。 トマト
腸内細菌の中で、もっとも数と種類が多いのが日和見菌です。 その名の通り、善玉菌と悪玉菌の形勢を見て、有利なほうの味方 をする菌たちのことです。このうち「デブ菌」と「ヤセ菌」があり、善 玉菌とヤセ菌は、高食物繊維-低脂肪の食事を好みます。「食物繊 維+酢」の組み合わせは、ヤセ体質になるためのゴールデンコン ビでもあるのです。そのいち押しのメニューが酢キャベツです。 酢キャベツ
14
第 1 章 高 齢
運動のさまざまな効果 高齢になると運動をしなくなります。筋肉量は加齢とともに減少し ますし、高齢者は運動中に転倒したり、ケガをすることを恐れる傾向 にあります。新型コロナウイルス感染症で外出自粛となれば散歩すら しなくなりがちです。そのような中で久しぶりに買い物に出かけると 決まって疲れを実感します。コロナ自粛の後遺症といっていいでしょ う。高齢者にも運動は必要です。というより高齢者にこそ運動が必要 なのです。運動の種類や強度に注意して行えば、高齢者も安心して行 える運動はいろいろあります。1日に2,000歩くらい歩けば寝たきり を予防できて、さらに8,000歩程度歩いて、そのうち20分間は中強 度の運動を行えば、生活習慣病を予防できるという研究結果もありま す 表2 。1日当たりに歩く歩数は健康と深い関係があるわけです 図4 。 4 1日あたりの「歩数」「中強度活動(速歩き)時間」と 「予防(改善)できる病気・病態」 表2 歩数 速歩き時間 予防できる病気・病態
者の
食
事
と
運
動
2,000歩 0分 ●ねたきり 4,000歩 5分 ●うつ病 5,000歩 7.5分
●要支援・要介護 ●認知症 (血管性認知症、アルツハイマー病) ●心疾患 (狭心症、心筋梗塞) ●脳卒中 (脳梗塞、脳出血、くも膜下出血)
7,000歩 15分 ●がん (結腸がん、直腸がん、肺がん、乳がん、子宮内膜がん) ●動脈硬化 ●骨粗しょう症 ●骨折 7,500歩 17.5分 ●筋減少症 ●体力の低下 (特に75歳以上の下肢筋力や歩行速度) 8,000歩 20分 ●高血圧症 ●糖尿病 ●脂質異常症 ●メタボリック・シンドローム (75歳以上の場合) 9,000歩 25分 ●高血圧 (正常高値血圧) ●高血糖 10,000歩 30分 ●メタボリック・シンドローム (75歳以上の場合) 12,000歩 40分 ●肥満
15
表4 1年間の平均歩数と健康のレベル
0 2.5 7.5 10 15 20 25 30 35 40 5
代謝的健康 (75歳未満) 代謝的健康 (75歳以上) 身体的健康 心理社会的健康 精神的健康 閉じこもり 非自立 寝たきり →
運動中心の男性型領域
4
3
2
1
家事中心の女性型領域
1年間の平均中強度活動時間(分/日)
0
1,000 2,000 3,000 4,000 5,000 6,000 7,000 8,000 9,000 10,000 11,000 12,000
1年間の平均歩数(歩/日)
運動には以下のようなさまざまな効果があります。
●血流の改善
●筋肉の衰えの予防
●骨粗しょう症の予防
●生活習慣病の予防
●心肺機能の向上
●バランス感覚の維持
●自律神経の 安定化
●ストレスの発散
●物忘れの予防
糖尿病ではインスリンというホルモンのはたらきが低下しています。 運動はこのインスリンのはたらきを良くしますので、糖尿病では運動 療法が大切です。また下半身の筋肉運動は心臓のはたらきを助ける効
16
果がありますから心臓病の人にもお勧めです。運動中のケガに注意し ながら行えば、運動は高齢者に多くのメリットがあります。集団で行 えば運動を通じた仲間づくりもできます。 この年でスポーツジムに通うのは気後れする、とかスポーツジムに 通って運動する時間がない、というシニア世代の方も多いでしょう。 そういう方も心配はいりません。歩くことも立派な運動です。私が 毎日行っていることは家、職場、学校と駅の間の距離を歩くことです。 なるべく早足で歩き、駅のエスカレーターやエレベーターは使いませ ん。親切な駅員さんとの会話は気分がいいものですし、駅にはさまざ まな情報が集まります。人々のファッションやいろいろな催し物、季 節の移ろいが分かります。車を使わない分エコな生活も出来ます。寿 命を全うするまで介護を必要とせずに、身の回りのことを自分で行い、 自分の足で歩く生活を送りたいものです。またポストコロナ時代を見 すえて、コロナ禍でなおざりになった食事と運動の両面を見つめなお したいものです。 まとめ 超高齢化社会となり長寿時代を迎えたわが国では寝たきりで介護を 受ける高齢者も急速に増えています。その原因の一つは過去の間違っ た生活習慣にあるといえます。禁煙を心がけて、アルコールの飲み過 ぎを控え、食事は野菜 ⇒味噌汁 ⇒ 主菜 ⇒ ご飯の順で食べて(ベジ タブルファースト)、食後高血糖を防ぎましょう。運動にはさまざま な効用があります。どこへでもなるべく早足で歩いて行くといろいろ な人や情報にも出会い気分も良くなります。寿命を全うするまで介護 を必要とせずにポストコロナ時代を健康的に過ごしたいものです。 5
第 1 章 高 齢
者の
食
事
と
運
動
17
これまで結核の中まん延国であったわが国が、低まん延国になったのは喜ばし いことには違いありません。これには昨今の新型コロナウイルス感染症も関係し ているかもしれません。新型コロナウイルス感染症予防のための三密を避ける日 常生活が結核にもいい影響を及ぼしている可能性があります。しかし、これはあ くまで10万人当たりの結核の感染者の数で判定されます。したがって、結核の 人が新型コロナウイルス感染症で病院受診を控えているという可能性も捨てきれ ません。統計上の数値はその背景を考えて注意して読む必要があります。 わが国の結核罹患率 トリビア ❶ トリビア ❷ サプリメントは、ビタミンやミネラル、アミノ酸、食物繊維、ハーブなど健康 の維持増進に役立つ成分を錠剤やカプセルにしたものです。サプリメントには、 健康の維持・増進、食品で不足する栄養素の補給、疲労回復、美容やダイエット などさまざまな利用法があります。サプリメントの情報はTVやSNS、雑誌など に氾濫していますので、どのような目的でどの種類のサプリメントを飲むのかを はっきりさせることが必要です。病院で処方されるお薬との相互作用がある場合 もあります。まずは栄養バランスのよい規則的な食事を心がけた上で、不足分が あればサプリメントで補うことを心がけましょう。 トリビア ❸ 血糖値スパイクを起こさないコツは、食事の最初に野菜や海藻類、きのこ類と いった、糖質量が少なく食物繊維量の多いものを食べるベジタブルファーストで す。野菜スティックをかじったり、サラダを食べたり、具だくさんな野菜スープ サプリメントの利用法 食後高血糖と食べ順健康法
も結構です。食物繊維には、消化酵素が糖質に近づくのを防ぐ 作用や、一緒に食べたものの消化・吸収をゆるやかにする作用 があります。食事で、野菜・海藻・きのこ類 ⇒味噌汁 ⇒ 主菜 ⇒ ご飯の順番を守ることは「食べ順健康法」といえるでしょう。
サーチュイン遺伝子とは トリビア ❹ 老化をコントロールして寿命を延ばすとされる長寿遺伝子は、サーチュイン遺 伝子ともいわれます。長寿遺伝子はだれもが持っていますが、過食を続ける生活 習慣ではスイッチが入りません。昔から言われる「腹八分」の量の食事を、 ❶よく噛んで、❷水分を良くとりながら、 ❸食べる順序を守って、❹ゆっくりと味わいながら 食べることにより長寿遺伝子のスイッチがオンになります。
18
第 2 章 心臓 の しくみ と はたらき 原土井病院 顧問、福岡大学名誉教授 今永 一成 先生 心臓の病気のおはなしに行く前にヒトの心臓のつくりや、心臓が はたらくしくみについてみてみましょう。心臓は筋肉でできていま す。筋肉のかたまりといっていいでしょう。しかし心臓の各部分は 統率がとれて、リズミカルに協調して動いています。そうでないと 効率の良いポンプとは言えないでしょう。心臓が効率的なポンプと してはたらくためには、実は電気が必要です。複雑なつくりの心臓 は、電気を利用することで統率のとれた動きをしています。電気の おかげで、全身に血液を送り出すポンプとして律動的にはたらくこ とができるのです。また全身に送り出す血液の一部を心臓自身も受 け取ることでポンプに必要なエネルギーを作り出しています。 ヒトは生活のなかで眠ったり、くつろいだり、緊張したり、運動 したりします。心臓は昼夜を問わずはたらき続けていますが、から だが必要とする酸素や栄養の量は状況次第で違うはずです。これら がどのように調整されているのかは、ヒトの健康を知るうえでも大 切です。心臓はホルモンを分泌する内分泌器官であることも分かっ ています。また心臓はほかで分泌されたホルモンの影響を強く受け ています。これらの巧妙な仕組みが加齢によってどのように変化す るのかもみていきたいと思います。 …
1
心臓の形 ヒトの心臓の重さは健常成人で200~300g(健常成人男性:およ そ280グラム、女性:およそ240グラム)程度で、その人の握りこぶ しの大きさです。高齢者でも重量はあまり変わりません。心臓を構成 する心筋細胞は年齢とともに若干少なくなりますが細胞が若干大きく なるからです。動脈硬化などで高血圧が長く続くと病的に心肥大が見 られます。病的な心肥大はレントゲン写真などでは心臓拡大として現 れ、心電図でも起電力の増大として現れます。 心臓は胸の真ん中(胸骨)より左に位置しています。心臓の尖端は 胸の前方を向き、心基底部が奥にあります。また正面側には右心房、 右心室があり、後方に左心房、左心室が位置しています。心臓の直ぐ 下には横隔膜があります 図1 、 図2 。 ヒトの心臓は左心房、左心室、右心房、右心室の4つの部屋から構 成されています。各部屋には血管が開いており血液が出入りします。 心臓に血液を送り込む血管を静脈、心臓から血液を送り出す血管を動 脈といいます。 酸素を充分含んだ動脈血が左心室より大動脈に拍出され末梢動脈を 通り全身の組織の毛細血管へ流れます。組織細胞は毛細血管から酸素 や栄養物を受け取りエネルギーの産生に使われます。そこで産生され る二酸化炭素(炭酸ガス)は排出され血液に入ります。二酸化炭素を 含んだ血液は静脈血となって集まり上・下大静脈より右心房へ還って いきます。右心房が収縮し血液は右心室へ、右心室が収縮し血液は肺 動脈を通り肺へ送られ、肺で二酸化炭素は離れ酸素と入れ替わります。 酸素を充分含んだ動脈血は肺静脈から左心房へ、左心房が収縮し左心 室へ流れ、左心室が収縮すると大動脈へ拍出され動脈血として全身へ 送られます。このように各室への血液の流れ込み、拍出は心房・心室
20
第 2 章 心 臓
図1 心臓の位置と大きさ
図2 成人の心臓は 200g〜300g
のし
く
み
と
は
た
ら
き
左鎖骨下動脈
左総頸動脈
腕頭動脈
大動脈弓
動脈管索
左肺動脈
上大静脈 右心耳
左心耳 肺動脈幹
右心房
左心室
15cm
右心室
10cm
医学書院
MCメディカル
図3 血液の流れる方向
心房弛緩期
肺動脈
心房収縮期
大動脈
肺動脈 大動脈
左房
左房
右房
右房
左室
右室
腱索
乳頭筋
心室弛緩期 心房収縮期 僧帽弁:解放 三尖弁:解放
心室収収縮期 心房弛緩期
僧帽弁:閉鎖 三尖弁:閉鎖 大動脈弁:解放 肺動脈弁:解放
大動脈弁:閉鎖 肺動脈弁:閉鎖
21
2 心拍の起原と心拍数 心臓は収縮と弛緩を繰り返し整ったリズムで拍動しています。拍動 を作り出す大元の部位は右心房の上大静脈が開く部位にあり、洞房結 節(発見者の名前でKeith-Flack node(1907)とも呼ばれます)と いわれます 図4 。この部の細胞は自動能(自発的に動く能力)が強く、 一定のリズムをもって心臓全体に伝わる刺激を作る心拍の起原になり、 この意味でペースメーカー(pacemaker)と呼ばれます。この部位 は自律神経(交感神経、副交感神経)の支配を受けており、この神経 によりリズム(心拍数)は調節されています。交感神経(放出される の弛緩・収縮によって行われます。左右の心房は同時に収縮・弛緩し、 左右の心室は同時に収縮・弛緩します。左右の心室は左右の心房収縮 より少し遅れて収縮します(時間差があります)。これが身体の血液 循環です。血液循環の中心は心臓であり心臓は血液の取り込み、拍出 というポンプの働きをしています 図3 。 右心房と右心室との境目(三尖弁)、右心室と肺動脈の境目(半月 弁、肺動脈弁)、左心房と左心室の境目(二尖弁、僧帽弁)、左心室 と大動脈の境目(半月弁、大動脈弁)には、それぞれ弁があります。 三尖弁、僧帽弁には乳頭筋からの多数の腱索が付着しています。これ らの弁は血液の逆流を防いでいます 図3 。 リウマチや細菌感染により、また加齢によりカルシウム(Ca)沈 着により弁の肥厚などが起こり開閉に支障をきたし(弁膜症)、血液 が心室に出入りする時血液の逆流が起こりますと、聴診により異常音 (雑音)が聞こえます。弁膜症により弁開閉障害が続くと心房や心室 に負担がかかることになり心臓機能に障害が惹起されます。
22
第 2 章 心 臓
図4 心臓の刺激伝導系
のし
く
み
と
は
た
ら
き
洞房結節 S-A node Keith-Flack 結節 ( 1907 ) Pace maker cells
バッハマン束 Bachmann bundle ( 1916 )
上大静脈
肺静脈
左房
前、中、後結節間路
ヒス束 His bundle
右房
房室結節 A-V node Tawara-node 田原結節 ( 1906 )
( 1893 )
下
大静
脈
右室
左室
プルキンエ線維 Purkinje fiber
プルキンエ線維 Purkinje fiber ( 1845 )
左脚、右脚 Tawara ( 1906 )
( )は発見された年
23
200 安静時 中央値 図5 年齢と安静時の心拍数 図6 運動中の心拍数の変化 心 拍 数 心 拍 数 20~30歳 130~135 心拍数/分 150 130 70 心拍数/分 健常者
中央値
70~80歳
65
100
100~105
50 70
70
60
60
0
55
安静時
最適運動強度
最大運動強度
20
40
60
80
90
運動強度
年齢
成分:アドレナリン)が働くと心拍リズムは速くなり、副交感神経 (放出される成分:アセチルコリン)が働くと心拍リズムは遅くなり ます。運動したり精神的興奮で心拍数が増加するのは交感神経の緊張 が高まるためです。自律神経の機能障害や酸素供給の障害(虚血)な どにより刺激生成が乱れると不整脈として現れます。 心拍数は成長や身体の活動によって変化します トリビア ❶ 。健常 者の安静時のおおよそ1分間の心拍数は、新生児では120~140、乳 児:110~130、幼児:100~110、学童:80~90.成人:70~ 80、高齢者(70歳以上):60~70です 図5 。 運動をすると運動強度の増加につれて心拍数は増加します 図6 。最 大運動時の心拍数は健常成人以降ではおよそ [220-年齢]で30歳以 上では運動習慣者は[205-(0.5x年齢)] の計算式で推定出来ます。 70~80歳では140~150/分ですが運動習慣者では165~170/分にな ります。加齢による心拍数の減少は運動習慣により予防できるのです。 高齢者では心拍数の減少がみられますが、その原因の主なものは、洞 房結節細胞数の減少、アドレナリンに対する感受性の低下(アドレナリ ン受容体の減少~変性)、基礎代謝の低下などが考えられています。
24
第 2 章 心 臓
3 心臓の刺激伝導系 心臓には心筋でありながら、収縮を主な働きとする心房筋や心室筋 と異なり、電気的な刺激を伝導することを主な働きとする特殊心筋細 胞群から構成された系があります。 洞房結節で生成された刺激はバッハマン束(発見者の名前で Bachmann bundle(1916)と呼ばれます)を介して左心房細胞へ伝わり ます。また右心房細胞に伝わった刺激は、右房内の3っの伝導路(前、中、 後結節間路、1963)を介して心房と心室との境目にある房室結節(発見 者の名前で田原結節、Tawara node(1906)と呼ばれます)に伝わ ります トリビア ❷ 。房室結節では刺激の伝導に少し時間がかかり、 次にヒス束(房室束、発見者の名前でHis bundle(1893)と呼ばれ ます)へ伝えられます。ヒス束から心室隔壁(左右心室を分ける壁: 心室中隔)にある左脚、右脚(田原の発見、1906)へ、次に心室 作業筋の直下に網状に分布しているプルキンエ線維(発見者の名前で Purkinje fiber(1845)と呼ばれています)に素早く伝えられ、そしてそ の刺激は心室筋へ伝わって行き心室筋の収縮をもたらします。これらの 刺激を伝えることを主とする特殊な心筋細胞群を「心臓の刺激伝導系」 といいます 図4 。この「心臓の刺激伝導系」という呼び方はもともと 田原(1906)によって命名されたのが始まりです 図7 トリビア ❷ 。 刺激(興奮)伝導速度は、洞房結節(0.10~0.02m/秒)や房室 結節(0.02~0.03m/秒)では心房筋(0.5~1.0m/秒)に較べては るかに小さく、バッハマン束(1.0~1.5m/秒)は大きいのです。ヒ ス束(1.0~1.5m/秒)、左右脚(1.5~2.0m/秒)、プルキンエ線維 (3~4m/秒)の伝導速度は心室筋(0.5~1.0m/秒)にくらべてはる かに大きいのです。 先に述べましたように、心房と心室は同時に収縮はしません。すな
のし
く
み
と
は
た
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き
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図7
九州大学医学部キャンパスの田原通り
田原淳博士写真(1873-1952)
わち、心房が収縮して血液が心室に送られるときには心室は拡張(弛 緩)していなければなりませんし、心室に血液が充満された後に心室 は収縮し血液を拍出出来るのです。つまり、心房収縮と心室収縮には 時間差が必要なのです。房室結節の伝導速度が低いことは心房収縮と 心室収縮の時間差(0.12~0.2秒)を作っているのです トリビア ❷ 。 このようにして刺激は房室結節を通過したあと直ちにヒス束、左右の 脚、プルキンエ線維に伝えられ、心室筋は尖端から収縮を始め、血液 を動脈へ絞り出すように収縮します。 通常の心筋(作業筋)は収縮することが仕事ですが、ヒス束、左右 の脚、プルキンエ線維などの刺激伝導系の心筋特殊細胞は一般の心筋 (作業筋)細胞に較べ少し大型ですが収縮は殆どなく刺激を伝えるこ とが主な働きです。伝導速度は交感神経の働きにより速くなり副交感 神経の働きにより遅くなります。 細胞と細胞とは細胞間接合部で連結しており、その部は特別な構造 をしたギャップ結合から成り細胞間の興奮伝導の場として働いていま す。伝導速度が遅い洞房結節や房室結節、伝導速度の速いヒス束、左 脚・右脚やプルキンエ線維、そしてその中間の心房筋、心室筋では、 ギャップ結合の性質が異なっているのです。この結合部機能は複雑な 機構で調節されております トリビア ❸ 。
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また、刺激伝導系の細胞は自動 能(筋自ら動く能力)があります ので、加齢により刺激伝導系の細 胞数が減少したり結合部の調節機 構が障害されますと刺激伝導が途 絶したり伝導速度が低下して、不 整で突発的な自発活動が誘発され て不整脈の原因になります。
第 2 章 心 臓
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ギャップ結合
心筋細胞
4 心筋の収縮 心房筋や心室筋(作業筋)は収縮性の筋肉細胞から構成されていま す。心房内腔、心室内腔の血液を拍出することが役目です。従って、 収縮力が強いときには拍出量は多くなり、収縮力が弱くなると拍出量 は少なくなります。心不全などは収縮力が弱くなる心臓の病気です。 心筋の収縮にはカルシウム(Ca)イオンが必要です。刺激伝導系 から刺激を受けると心筋細胞は興奮し収縮を始めます。細胞興奮によ りCaイオンが細胞外から細胞膜のCaの通り道(Caイオンチャネル) を介して細胞内へ入り、そのCaイオンが細胞内Caイオン貯蔵庫(筋 小胞体)からCaイオンを大量放出させ細胞内Caイオンは急増します。 このCaイオンの作用で筋収縮蛋白質であるアクチンとミオシンの 干渉(橋形成)により心筋の収縮が起こります。Caイオンが収縮蛋 白質から離れ筋小胞体やミトコンドリアへ再度取り込まれたり細胞外 へ排出される時に弛緩が誘導されます。
27
心筋は個々の細胞から構成されていますが、心筋束の一部に刺激が 伝わると心筋全体が殆ど同時にあたかも1個の細胞のように収縮しま す(機能的合胞体)。心房全体は同時に、心室全体は同時に収縮します。 これは、先に述べたように隣接細胞はギャップ結合で繫がっているので、 刺激は細胞間を素早く伝わって行くことに起因します。 健常者では心房が収縮し心室が弛緩するまでおよそ500~600ミリ 秒(msec)(0.5~0.6秒)です。これが1拍動の時間です。心拍の間 隔は1拍動毎の休憩時間およそ0.3~0.4秒を加えた値です。 交感神経のアドレナリンはCaイオンの細胞内への流入を促進し収 縮を増強させ、副交感神経のアセチルコリンは逆の作用で収縮を弱め ます。また、Caイオンの排除が遅れると弛緩速度は遅くなり、心拍 数が増加する程収縮力は弱くなります。このように、Caイオンチャ ネルや筋小胞体機能などの障害により、収縮障害や不整脈などの疾病 が惹起されます。高齢者ではCaの排除機構が減退しますので弛緩速 度の低下がみらます。 心臓の収縮筋はゴムのような性質があり、伸ばせば縮む力は強く なります。すなわち心室に充満する血液が増加すれば心筋は伸展さ れ、縮む力すなわち収縮力は大きくなります(Frank-Starling心臓の
法則) 図8 。成人では血液 量はおよそ体重の13分の 1ですが、動脈血量に較べ 静脈血量が7倍も多いので す 図9 。運動すると心臓に 静脈血として還って来る血 液量は多くなるので心室筋 は伸展し、結果的に心室の 収縮力は大きくなり心室か ら拍出される血液量は多く
図8 フランク・スターリングの法則 心 筋 収 縮 力・ 1 回 心 拍 出 量
静脈血還流量 心筋伸展長
28
なります。このようにして 持続的な運動ができるので す。長期寝たきりになると 循環血漿量(血液中の血球 を省いた成分)が減少しま す。高齢者や心不全ではこ の現象が顕著ですので運動 時の心拍出量が増加しなく なり、運動を続けることが 困難になります(次の心拍 出量を参照)。
第 2 章 心 臓
図9 全血液量が各血管系へ分布する割合
肺
心肺 15%
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肺動脈
肺静脈
大
動
脈
左房
右房
左室
動脈系 10%
静脈系 70%
右室
体循環静脈
細静脈
静脈弁
細動脈 動脈
毛細血管
組織 5%
臓器組織
Shepherd & Vanhoutte
心拍出量(分時心拍出量) 1回の収縮で左心室から拍出される血液量を1回心拍出量(Stroke volume:SV)といいます。また1分間に左心室から拍出される血液量 は心拍出量(正確には分時心拍出量)といいます。これは心臓機能の 評価の指標として使われます。 心拍出量=1分心拍数 ×1回心拍出量 で表されます。 これまでの話から、健常者の安静時の心拍出量は、 成人 70×80mℓ=5600mℓ(5.5ℓ/ 分) 高齢者 60×70mℓ=4200mℓ(4.2ℓ/ 分) になります。 5
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図10 1回心拍出量と年齢
図11 心拍出量と年齢
心拍出量
ℓ/ 分
6
安静時 健常者
安静時 健常者
80
5
20 図12 1回心拍出量と運動 図13 心拍出量と運動 1 回 心 拍 出 量 1 回心 拍 出 量 40 60 80 70 60 ㎖ 50 100 110 安静時 150 50 0 120 80 70 76.5~80 70~75
心
拍
出
量
4
3
2
年齢
年齢
20
40
60
80
20~30歳
70~80歳
最適運動強度
最大運動強度
運動強度
ℓ/ min
30
25
20~30歳
心
拍出
20 量
16 15.6 ~ 16.2
15
10 ~ 10.5
10
70~80歳
5.5 4.5
5 4
安静時
最適運動強度
最大運動強度
運動強度
30
加齢により心拍数もSVも減少するので心拍出量も減少します 図5 、 図10 、 図11 。 運動をすると心拍数もSVも増加しますので、当然心拍出量も増 加します 図6 、 図12 、 図13 。最大運動時ではSVは健常成人では 120mℓに増加しますが、高齢者で100mℓ程度の増加です 図14 。つ まり、健常成人では予備能力が約40mℓあり、高齢者では少なくな ります。これは、先に述べましたように、高齢者では心筋収縮速度・ 弛緩速度が鈍くなり、心拍数が多くなるにつれ収縮力が低下してくる ことに起因しています。他の要因として高齢者では心室の拡張能が低 下しますのでFrank-Starling効果が弱くなります。 健常者の最大運動時の心拍出量は、
第 2 章 心 臓
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健常成人(20歳として) (220-20)/分×120mℓ=24000mℓ/分
高齢者(70歳として) (220-70)/分×100〜107mℓ=15000〜16000mℓ/分
図14 最大1回心拍出量と年齢 図15 最大心拍出量と年齢
ℓ/ 分
最大1回排出量
健常者
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最大運動時
㎖
回心 120
1
拍
出量
最大
心
拍出
量
運動習慣群
110
20
19
18 17
100
非運動習慣群
16
90
15
年齢
80 年齢
40
50
60
70
20
40
60
80
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心臓への栄養補給 心臓が正常に働くためには、心筋細胞が自らエネルギーを造らねば なりません。このエネルギー産生に必要な酸素、電解質(ミネラル、 イオン)、糖やアミノ酸などの栄養物質、ビタミンなどは心臓を取り 巻く冠動脈から供給されます。 冠動脈の血流量は健常成人(心臓重量300gとして)で、 安静時:心拍出量の5%、およそ250mℓ/分です(1日360ℓ)。 最大運動時:心拍出量の4%でおよそ1000mℓ/分(安静時の約4倍) 高齢者では心拍出量が減少しますので冠血流量も減少します。 心筋機能に必要なエネルギー源(ATP)は脂肪酸、ブドウ糖や乳酸 から生成されます。成人では通常(安静時~空腹時)では60~70% は脂肪酸代謝により得られますが、運動などで心拍数が増加する時は ブドウ糖代謝、乳酸代謝からの供給も増えてきます。これらの代謝に は酸素が必要です(有酸素代謝)。 心臓での酸素消費量は、健常成人(心臓重量300gとして)で、 安静時:全身の約10%、30~35mℓ/分です(1日45~50ℓ)。 このように、運動強度が増加するにつれて心拍出量は増加しますが、 高齢者のそれは成人より弱くなり、成人と高齢者の差が大きくなりま す 図12 、 図13 。高齢者でも心拍出量は運動習慣によってその低下 は予防、改善されます 図15 。 心拍出量は身体器官の酸素需要量に応じて調節されています。そし て 心拍出量は身体器官の血流量や酸素消費量にも大きな影響を与え ますので トリビア ❹ 、心拍出量を健全に維持することは生命維持、 健康寿命の延伸にも重要なことです。 6
32
最大運動時:全身の5~6%、150~160mℓ/分、安静時の約5倍 加齢により、ブドウ糖(グルコース)を利用する糖代謝(酸素が不十 分でもATPを産生できる解糖系)が脂質代謝より優位になってきます。 虚血(酸素の供給がゼロに近い状態)に対する有利な反応です。しか し、圧負荷には弱くなります トリビア ❺ 。 動脈硬化などで冠動脈が細くなったり血栓(血液の塊)により詰 まってくると血液は流れ難くなり、心筋細胞は酸素不足(虚血)にな り機能を失います。狭心症や心筋梗塞が発症します(第4章)。 運動により心臓の活動が亢進し酸素が多く必要になった時の酸素の 供給が不十分で起こる狭心症が労作性狭心症と呼ばれます。 有酸素代謝にはミトコンドリアが関与しますが、加齢によりミトコ ンドリア機能が減弱しますのでATP産生能は低下します。またミトコ ンドリア由来の活性酸素の生成が多くなりますので細胞障害も起こり 易くなります。高齢者での心臓機能低下の一因になっています。
第 2 章 心 臓
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ホルモン分泌 心房からANP(心房性ナトリウ ム利尿ペプチド)、 心室からBNP (脳性ナトリウム利尿ペプチド)と いう組織ホルモンが分泌されます。 これらのホルモンは腎臓に作用し血 液中のナトリウムの尿中排泄を促し ます。血液(体液)中の余分なナト リウムを排泄しナトリウム量の恒常 性維持のために働いています。これ 7
Na利尿 ペプチド
ANP
BNP
水 Na
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まとめ 心臓は環境変化に対して素早く機能調節を行いポンプ機能を維持出 来る優れた臓器です。心臓は細胞から構成されていますので、加齢に より自然に細胞機能が衰えてゆきます。何らかの疾病により二次的な 因子が加わると加齢による機能減衰が加速され環境変化への対応が困 難になります。対応出来なくなり機能に破綻が起きるときが心臓の寿 命です。心臓に負担をかける二次的因子として、動脈硬化、高血圧、 糖尿病、肥満、低蛋白、ビタミン不足、筋萎縮、酸素摂取量減少、基 礎代謝低下などがあります。これらは生活習慣病から起こってきます。 心臓を健全に維持するためにはこれらの因子を可能な限り避けること、 すなわち、生活習慣病の予防が大切なのです。 8 「ゾウの時間 ネズミの時間 サイズの生物学」(本川達雄 著、中公新書)によ ると哺乳類は種を問わず、ゾウもネズミも一生で心臓は15~20億回打っていま す。これを本川氏は「心拍数一定の法則」と呼んでいます。これは動物の種を 問わず、心拍の周期が体重の1/4乗に比例することによります。実際にハツカ ネズミの心拍周期は0.1秒、ゾウでは3秒、ヒトでは1秒です。すると心拍数は ハツカネズミで600拍/分、ゾウで20拍/分、ヒトでは60拍/分となります。 トリビア ❶ ヒトの心拍数 らは心不全(第4章)では血液中の濃度が増加します。ANPは心不全 の治療、BNPは心不全の診断に広く利用されています。また、骨格 筋で主に生成されて筋崩壊を促すミオスタチン(筋細胞で生成される 蛋白質であるミオカインのひとつ)は心室筋でも生成されます(第3 章 トリビア ❶ 参照)。心不全では心筋からのミオスタチンの生成が 増加して骨格筋に作用し筋崩壊を惹起させます。心不全で筋萎縮が起 こるゆえんです。
34
第 2 章 心 臓
田原はドイツ留学時代(1903~1906)に心臓病の病理学研究を始めまし た。その過程で、心房と心室の移行部に、それ以前に発見されていたヒス束 (1893)とは異なった特殊な細胞群を発見し「房室結節」と名付けました。ヒ ス束を組織学的にたどっていくと心室隔壁のこれまた特殊な筋細胞群(左脚・ 右脚:田原の発見)に繋がっていることを、そしてさらに左脚が左心室筋の特 殊な組織:プルキンエ線維(1845)に、右脚が右心室筋のプルキンエ線維に繋 がっていることを発見しました。ヒス束もプルキンエ線維も発見当時はその機 能や役割など全く不明でした。田原は、ヒト、ヒツジ、ウシなどで自ら発見し た心房心室間特殊組織(房室結節)から特殊筋ヒス束、左右心室の隔壁にある 左脚・右脚(田原発見)、左右プルキンエ線維にかけ細胞が密に繫がっている ことを組織学的に証明し、心房で起こった刺激が田原結節、ヒス束、右脚・左 脚、プルキンエ線維を通り心室筋に伝わるものと想定し、これを「心臓の刺激 伝導系」と名付けました(1906)。田原の発見にヒントを得たキース・フラッ クは1年後に心拍起原となる洞房結節を発見しました(1907)。 驚くべきことに田原はあの時代(1906)に、房室結節(田原結節)の刺激 伝導速度は遅く、これが心房と心室の収縮時間差を作っていること、またヒス 束、左脚・右脚、プルキンエ線維の伝導速度が速いことを組織学的特徴から予 測していました。 一方、オランダの生理学者、アイント-ベン(Willem Einthoven)は心臓が 拍動する毎に規則正しい電流の波が起ることを弦線電流計で記録することに成 功し(1903, 1908)、その波をP,Q,R,S,Tと記しました。しかし、波の起原や意 味はわかりませんでした。田原の「刺激伝導系」の発見とそれに続く洞房結節 の発見によりP,Q,R,S,Tの意味付けが始めて出来るようになり、「心電図」とし て心臓病の診断にも応用されるようになりました。この業績によりアイントー ベンにはノーベル医学生理学賞が授与されました(1924)。その後心電計の改 良により精密な記録が出来る様になり、また心筋の電気現象の解析により、現 在の心電図記録、心電学に発展してきました。このように、田原淳の発見は、 心電学の発展のため、そして現代のペースメーカーの発展のためにも大きな役 割を果たしたのです。ノーベル賞級の発見と言われるゆえんです。 トリビア ❷ 田原 淳の「心臓の刺激伝導系」発見の意義 田原 淳(1873~1952) の簡単な経歴です。大分県東国東郡に生まれました(旧姓:中嶋)。大分県中 津で開業の医師、叔父にあたる田原春塘の養子になります。1901(明治34)年東京帝国大学医学部卒。 1903~1906年ドイツMarburg大学病理学のAschoff教授の許に留学し心臓病の病理学研究を始めまし た。その研究過程で大変な努力の結果発見した房室結節、左脚・右脚、そして彼以前に発見されていた ヒス束、プルキンエ線維を含め、その役割を組織学的知見に生理学的思考を加えた画期的とも言える世 界的名著:「哺乳動物心臓の刺激伝導系」を単行書として発刊しました(1906)。帰国後(1906)、直ち に九州帝国大学(現在の九州大学)医学部病理学教授に招かれ1938年まで務めました。
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田原 淳博士の住居跡
ドイツ留学前の田原淳博士
田原 淳博士の顕彰碑
九州帝国大学医学部病理学教授時代の田原淳博士の授業風景 (九州帝国大学医学部卒業記念写真帖より)
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第 2 章 心 臓
トリビア ❸
心筋細胞における隣接細胞間結合―ギャップ結合
細胞と細胞との接合部は特殊な構造をしておりギャップ結合と呼ばれていま す。心筋のギャップ結合は特殊な蛋白質で構成された極めて細い管状の通路 (ギャップ結合チャネル)で隣接細胞と繫がっている構造をしており隣接細胞 間の興奮(刺激)伝導の場として働いています。その蛋白質の種類や分布密度 などは部位によって異なっています(遺伝子で制御されています)。伝導速度 の遅い洞房結節や房室結節では、チャネルの数は少なく密度は低い(粗)ので す。一方、伝導速度の速いヒス束、左脚・右脚、プルキンエ線維ではチャネル の数が多く高い密度をもっています。心室筋や心房筋はその中間の性質を持っ ています。チャネルの数や開閉は伝導速度に変化を与えます。すなわち、チャ ネル発現が多ければ、開口が促進すれば興奮伝導速度は高まります。逆に、発 現が少なくなれば、閉口すれば伝導速度は低下します。これらは細胞内の蛋白 リン酸化物質、脱リン酸化物質、酸度(pH)、Caイオンなどの心筋代謝の変 化で微妙に調節されています。 筋血流量は運動により増加します。これを心拍出量から考えてみましょう。 健常成人:安静時:心拍出量の20%でおよそ1ℓ/分 最大運動時:心拍出量の80% でおよそ20ℓ/分(安静時の約20倍) 健常高齢者(70~80歳):安静時:心拍出量の20%でおよそ0.8ℓ/分 最大運動時:心拍出量の60~70%で10~12ℓ/分(安静時の約15倍) 運動習慣によりこの値は増加します。高齢者で筋血流量が低下する理由とし て、心拍出量の減少、筋肉の血管拡張機能の低下、筋萎縮による血管床の減少 などが考えられます。 トリビア ❹ 筋血流量
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心臓は主に脂肪酸、ブドウ糖、乳酸を栄養素として利用しています。空腹時 は脳が優先的にブドウ糖を利用して心臓は脂肪酸をエネルギー源にします。食 後は血糖が上がるため心臓もブドウ糖を利用します。運動後は骨格筋で生じた 乳酸も利用できます。このような心臓の栄養素の使い分けはインスリンによっ て行われますが、近年このインスリンの効き目が鈍ってしまうインスリン抵抗 性という状態が多くの生活習慣病でみられます。そうすると心臓は栄養素の臨 機応変な使い分けができずに、結果的に心臓のエネルギーコストが増大するこ とになります。その反面、インスリン抵抗性による体重増加や交感神経の活性 化、血圧や血液粘度の上昇などは心臓の仕事量を増やします。そのアンバラン スの結果、心臓の機能は低下して、後述する心不全という状態になることが指 摘されています。 トリビア ❺ 心臓の栄養素
だけ…… ブ ド
ウ糖
ブ
ド
ウ
糖 脂
肪
酸
乳 酸
脳は偏食(ブドウ糖しか食べない) 心臓は雑食(脂肪酸、ブドウ糖、乳酸を食べる)
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第 3 章 高齢者 の 身体機能 第2章で心臓のつくりとはたらく仕組みをみてきました が、言うまでもなく心臓のはたらきはさまざまなからだのは たらきと深くかかわっています。この章では人のからだのは たらきが加齢とともにどのように変わるのかをみていきま しょう。からだの機能の衰えは心臓病を増やすことが知られ ていますし、からだの機能の衰えているほど心臓の病気の治 りの遅れることが言われています。 からだのなかでも筋肉や骨は加齢の影響を受けますが、適 切な食事と運動によってそれらの機能を維持することが出来 ます。食事で十分な栄養をとるためには、口腔や嚥下(食べ 物や飲み物を飲み込むこと)に関する機能も大切です。この 章では心臓病に入るまえに、高齢者で最近問題となっている 全身的な病気をとり上げます。健康寿命を維持するうえでは、 これらの病気を食事や運動の面から予防し改善して、上手に 加齢と付き合っていくこと(サクセスフルエイジング)が大 切です。 …
1 筋肉のはたらき 人のからだのはたらきを考えるときに、筋 肉がすぐに思い浮かびます。筋肉は運動を行 う時に使われるだけでなく、さまざまなはた らきがある臓器といえます。筋肉はからだ の中で640個もありますから、ヒトのからだ の中で最大の臓器です。筋肉の役割は運動を おこなうことだけではありません。それ以外 にも熱を生み出したり、血液やリンパ液を心
臓へ送り返したり、体が衝撃を受けた時にクッションの役割を果た しています。さまざまな物質を分泌していることも分かって来まし た トリビア ❶ 。冷え性の人は、概して筋肉の量が少ない傾向にあり ます。筋肉による熱産生が低いわけです。さらに筋肉は、インスリン のはたらきで糖分を取り込むことで、食後の血糖が急上昇するのを防 いでくれます。第1章でみた食後の血糖値スパイク(食後高血糖)は やせ型の20歳台の女性の5人にひとりで見られるというデータもあり ます( 第1章 図2 )。糖を取り込む最大の臓器である筋肉が少ないた め食後高血糖をうまく処理できないわけです。血糖値スパイクは糖尿 病への入口です。筋肉は糖分の代謝に深く関係しており、欧米人に比 べてやせている日本人に糖尿病が多いのはインスリンの分泌量が少な いことと筋肉量が少ないことが関係しているようです。 筋肉のなかでもとりわけ下半身の筋肉は、収縮を繰り返すことで重 力により下半身に留まりがちな血液を心臓に送り返しています。「足 は第二の心臓」といわれるゆえんです 図1A 。もちろんこれはよく歩 いて下半身の筋肉を使っている場合の話です。あまり歩かない時に足 のむくみを感じることがあります。むくみはなくてもいつも履いてい
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る靴を小さく感じることもよくあります。足の筋肉の収縮が少ないた めに下半身にたまった血液が心臓に戻りにくいためです 図1B 。また あまり歩かないで立ち時間の長い人では、静脈瘤が出きやすくなり ます。これは足の静脈にある弁が血液のうっ滞で機能しにくくなっ た状態といえます 図1C 。筋肉のコンディションは本人にとってよく 分かりますし、大切な健康のバロメータといえます。足の状態は毎日 チェックしましょう。
第 3 章 高 齢
者の
身
体
機
能
図1 足の健康と日常生活
A よく歩く場合 「足は第二の心臓」
B 歩かない場合 むくみが出現
C 立ちずくめの場合 静脈瘤が出現
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サルコペニア 自宅や施設で介護を受けることは高齢者にとって他人ごとではあり ません。介護が必要になる大きな理由は身体の機能の衰えです。身体 の機能が衰えて活動量が低下する主な原因は、全身的な筋肉量が減少 して、筋力が低下するからです。残念ながら筋肉の量は年齢とともに 減っていきます。筋肉線維の数は70〜80歳台では20歳台の頃の半分 に減ります。筋肉量の減少が、低栄養をともなって死亡率を上げる状 態を最近では、サルコペニアとよんでいます。サルコペニアには、筋 力(握力)、身体測定(筋肉量)、身体機能(歩行速度)などの診断 基準があります 表1 。しかし「横断歩道を1回の青信号で渡れるかど うか?」である程度は診断することができます。サルコペニアは、早 めに見つけて適切に介入することで元に戻すことができます。サルコ ペニアを予防したり、改善するには第1章で述べた食事の工夫や運動 習慣がとても大切です トリビア ❷ 。 2
表1 サルコペニアの診断基準の一例 握力
男性:28kg未満、女性:18kg未満 歩行速度 0.8m/秒以下 (0.8m/秒以下では1回の信号で横断歩道を渡りきれない可能性) 身体測定 ふくらはぎの太さ:男性34 cm未満、女性33 cm未満 (サルコペニアの診断基準は欧米とアジアで異なり、 時代とともに変わっていくと思われます。)
42
第 3 章 高 齢
ロコモとフレイル 立ったり歩いたりが困難になると社会参加に支障をきたすようにな ります。もともと関節や筋肉、神経などの運動器が衰えて移動能力が 低下した状態を整形外科の領域ではロコモティブシンドローム(運動 器症候群)と呼んでいました。年齢が進むと当然ロコモティブシンド ローム(ロコモ)は多くなります。ロコモでも運動機能が低下するこ とにより移動が困難になったり転倒のリスクが高くなり、ひいては介 護が必要になるケースもみられます。サルコペニアは特に加齢により 筋力や筋肉量が減少した状態ですから、ロコモの方が加齢によってサ ルコペニアの状態になることも十分考えられます。ロコモもサルコペ ニアも要介護となるリスクがありますが、早めに診断して食事を改善 3
者の
身
体
機
能
図2 フレイルの3つの要因
身体的 フレイル
サルコペニア ロコモ、 オーラルフレイルなど
精神心理的 フレイル
社会的 フレイル
抑うつ 認知症など
独居 閉じこもりなど
43
し、運動を工夫して社会参加を促すことによって回復・予防すること ができます。 サルコペニアが進むと身体活動が制限されますので、家に閉じこも りがちになります。すると抑うつ気分になり認知機能も低下していき ます。食欲が低下し体重は減少して虚弱になります。このように加齢 により全身的に脆弱になった状態はフレイルとよばれます。フレイル には加齢だけでなく病気や栄養状態、生活習慣、心理状態などさまざ まな要因が関係しています。フレイルは身体的、精神・心理的、社会 的な要因がたがいに負の影響を及ぼし合っている多面的な病態といえ
病気 図3 フレイルは要介護の一歩手前 自立 の 程 度 活動量 の低下
可逆性
嚥下機能 の低下
低栄養
健 康
フレイル
要介護
健 康 寿 命
生 物 学 的 寿 命
(葛谷雅文. 日老医誌 2009; 46: 279-285より引用改変)
表2 簡易フレイル・インデックスチェック票
1点 0点
□ はい □ はい □ いいえ □ いいえ □ はい
□ いいえ □ いいえ □ はい □ はい □ いいえ
1.6ヵ月間で2~3kgの体重減少がありましたか? 2.以前に比べて歩く速度が遅くなってきたと思いますか? 3.ウォーキング等の運動を週に1回以上していますか? 4.5分前のことが思い出せますか? 5.(ここ2週間)わけもなく疲れたような感じがしましたか?
(Yamada M, Arai H. J Am Med Dir Assoc 2015; 16: 1002. e7-11より) いくつ当てはまりますか? 合計1~2点でプレフレイル、3点以上でフレイルとなります。 □ ✓
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るでしょう 図2 。サルコペニアも身体的なフレイルとなる大きな原 因です。フレイルの高齢者は転倒したり骨折を起こしたり、またこれ らが元で要介護の状態になりやすいとされています 図3 。 日本人のフレイルの診断には 表2 の簡単なチェック票が使われて います。各項目の「はい」を1点として(最高5点)3点以上であれば フレイルと判定します。シニア世代の方々は如何でしょうか。1~2 点でもプレフレイルといってフレイルの前段階となります。フレイル は加齢とともに進みますが、適切に介入することで健康な状態に戻す ことも可能です。フレイルが健康状態と要介護状態の中間段階にある という意味で、フレイル予防は要介護状態になるのを防ぐことでもあ ります。長いコロナ禍で外出自粛が続き、運動量が減ったシニア世代 の方は多いと思います。コロナ禍で心身が脆弱になり、フレイルにな る高齢者が増えています 図4 。健康寿命を出来るだけ長く保つために、 食事や運動以外にも社会参加を促して、フレイルを予防しつつポスト コロナ時代を過ごしましょう。そしてこのフレイルは次の章で述べる 高齢者の心臓病にも大きく関係しますので早めの介入が大切です。
第 3 章 高 齢
者の
身
体
機
能
図4 コロナ禍におけるフレイルの増悪
体力の 衰え
気力の衰え
筋肉量 の減少
社会参加なし
悪循環
悪循環 コロナで外出自粛 治療の遅れ
筋肉や関節の 痛み
認知機能 の低下
要介護 通院控え
引きこもり
転倒・骨折
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骨粗しょう症 骨には、体を支え動かし、脳や心臓などの大切な臓器を守るほか に、生命を維持する重要な役割があります。それは血液を作り、カル シウムをたくわえる役割です。カルシウムは骨の材料になるだけでな く、全身の細胞が働くために必要なミネラルです。心臓が血液を送り 出すポンプとして働く上でも欠かすことのできないミネラルです。骨 のなかでは、新たに骨を作ろうとする細胞(骨芽細胞)と古い骨を壊 そうとする細胞(破骨細胞)がバランスを取っています。このバラン スが崩れて破骨細胞の力が強くなると骨はスカスカとなり、骨密度が 低くなります。また体内で必要なカルシウムの量はホルモンによって 調節されており、不足すると骨からカルシウムが溶け出して不足分を 補充します。したがって慢性的にカルシウムが不足すると、骨密度は 下がって、骨粗しょう症のリスクが高まります。 骨粗しょう症の原因には、確かに遺伝や性別、年齢など自分でコン トロールできないものもあります。歳を重ねるとどうしても骨を作る 力は弱くなります。特に女性は閉経後、ホルモンの影響で骨粗しょう 症になりやすくなります。しかし一方で、食生活(カルシウム、ビタ ミンD、ビタミンKの不足)や運動不足などの生活習慣も骨粗しょう 症に関与することが指摘されています。生活習慣病で増える内臓脂肪 も骨芽細胞を減らし、骨の新陳代謝を遅くして骨粗しょう症を進めま す。骨密度は多くの病院で測定することが出来ます。骨粗しょう症で 問題なのは骨折しやすくなるだけでなく、骨から溶け出したカルシウ ムが血管や大動脈弁に沈着して石灰化を起こすことです。それにより 動脈硬化が進んだり、大動脈弁狭窄症という心臓弁膜症が生じたりし ます(第4章)。現在、骨粗しょう症は、薬で治療できるようになっ てきました。しかし、まずは生活習慣の改善と定期的な骨密度の検査 4
46
が大切です。食生活では、栄養バランスがよくカルシウムや骨作りに 役立つマグネシウム、ビタミンD、ビタミンKを含む食品も継続的に 摂りましょう。ビタミンDは食べ物のカルシウムを腸から吸収するの を助け、ビタミンKは吸収されたカルシウムを骨に取り込む役目があ
第 3 章 高 齢
者の
身
体
機
能
ります。また骨に軽い刺激をかける運 動(立ってかかと落としを繰り返す) で、骨にカルシウムをしっかり沈着さ せることも大切です。適度な運動は、 生活習慣病の予防以外に骨密度を維持 する上でもとても大切です。
破骨 細胞
骨芽 細胞
高齢者の嚥下機能 ここで高齢者の嚥下(えんげ)機能についても少し考えてみましょ う。わたしたちが食事中に無意識に食べ物を飲み込んでいる行為は、 いくつもの筋肉のはたらきや反射機能が関与しているとても複雑な 作業です 図5 。しかし加齢によって嚥下に関与する筋肉の筋力は低 5
図5 嚥下のしくみ
口腔期
口腔期~咽頭期 咽頭期~食道期
軟口蓋
鼻咽頭閉鎖
食塊
舌骨
食塊
食道入口弛緩
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改善プログラム ❶ お口・舌の動きをスムーズにするプログラム 図6 オーラルフレイル予防のプログラム
(唇を中心とした)口の体操
(唇を中心とした) 口の体操
❶ 「ウー」口をすぼめる。 ❷ 「イ~」と横に開く。
うー…
いー…
❶
❷
(唇と)頬の体操
ほほを膨らませた後、 すぼめるという動きを 数回する。 (水はなくてもOK) (唇と)頬の体操
舌の体操(舌圧訓練)
水は大さじ 1程度
繰り返し ましょう
舌の体操(舌圧訓練)
❶ 舌を左のほほの内側に強く押しつける。 ❷ 自分の指で、口の中の舌の先を、ほほの上から押さえる。 ❸ それに抵抗するように、舌をほほの内側に、 ゆっくり10回押しつける。 ❹ 右のほほでも同じことを繰り返す。
舌先と指先を 10回押し 付け合う
パタカラ体操
パタカラ体操 「パ」「タ」「カ」「ラ」 各発音8回を 2セット行う。
パ
パ
唾液腺マッサージ
パ
パ
パ
パ
パ
パ
❶ 耳下腺
唾液腺マッサージ
❶耳下腺マッサージ 指数本を耳の前(上の奥歯あたり)に当て、10回ほど円を描くように マッサージしていく。 ❷ 顎下腺マッサージ 顎のラインの内側のくぼみ部分3~4か所を順に押していく。 目安は各ポイントを5回ほど。 ❸ 舌下腺マッサージ 顎の中心あたりの柔らかい部分に両手の親指を揃えて当て、 10回ほど上方向にゆっくり押し当てる。
❷ 顎下腺
❸ 舌下腺
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第 3 章 高 齢
改善プログラム ❷ 飲み込むパワーをつけるプログラム
開口訓練 ❶ ゆっくり大きく口を開け10秒間保持する。 ❷ しっかり口を閉じて10秒間休憩する。 ※口を開くときには、無理せずに痛みが出ない程度にする。
開口訓練
者の
身
体
機
能
❶
❷
10秒 10秒 1日10秒間×2セット(朝・夕)行ってください
ベロを少し出したまま、 口を閉じてつばを飲み込む。 ※舌を出し過ぎないのがコツ。 ベロ出しごっくん体操
ベロ出し ごっくん体操
おでこ体操
ゴックン!
おでこ体操
❶
❶ 指先を上に向け、手のひらでおでこを押し合うようにする。 ❷ おへそをのぞきこみながら、5つ数える。 ※首に痛みのある方や高血圧の方は避ける。
❷
❷
ごっくん体操
改善プログラム ❸ 滑舌を良くするプログラム
❷
なまむぎ なまごめ なまたまご (生麦 生米 生卵)
レベル 1 レベル 2 レベル 3 レベル 4
❶
ごっくん
隣の客はよく柿食う客だ
ごっくん体操
※体操の前に喉ぼとけの位置をチェック。 ❶ 喉ぼとけに手を当て、ゴクンと飲み込む。喉ぼとけ が上がることを確認する。 ❷ のどに手を当てたまま、顎を少し引く。ゴクッと飲 んで、喉ぼとけを上げる。そして喉ぼとけを上げたま ま、5秒保つ。 ※5秒が難しければ、できる長さで無理せず行う。 ❸息を一気に吐き出す。
この竹垣に竹立てかけたのは 竹立てかけたかったので 竹たてかけた あおまきがみ あかまきがみ きまきがみ (青巻紙 赤巻紙 黄巻紙)
口を大きく動かしながら3回続けて言いましょう。
改善プログラム ❹ 舌のパワーをつけるプログラム
舌トレーニング
❶ 舌で下顎の先を触るつもりで伸ばす。 ❷ 舌で鼻のあたまを触るつもりで伸ばす。 ❸ 舌を左右に伸ばす。 ❹ お口の周りをぐるりと舌を動かす。 ❺ スプーンなどを使って、舌に押し当てて押し、 その力に抵抗するように舌を上げる (左から・右から・前からと同様に行う)。
❷
❶
舌で鼻の あたまを 触るように
舌で下あごの 先を触るように
❸
舌を左右に伸ばす
❺
❹
スプーンで 舌を押し、 抵抗する
口の周りを ぐるりと舌を動かす
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下します。嚥下に必要な反射の機能も衰えます。このような嚥下機能 の低下は栄養状態を悪くして、誤嚥(ごえん)を招くことになります。 誤嚥性肺炎は嚥下機能が低下した状態で、食べ物や飲み物、唾液など が気管に入ることによって生じる肺炎です。免疫機能が低下したり、 栄養状態が悪い高齢者では、誤嚥性肺炎が重症化しやすく、命にかか わることもあります。誤嚥をおこすと普通はむせたり咳き込んだりし ますが、高齢者は誤嚥しても気が付かないことがあります。知らない 間に少量の誤嚥を繰り返していることがあります。このような誤嚥を 不顕性誤嚥といいます。先に述べたフレイルの高齢者では嚥下のはた らきや咬む力、唾液の出る量などが低下しており、オーラルフレイル という状態になっていることが多くあります 図6 。 嚥下機能の衰えはお薬の内服にも影響します。内服したと思ってい た錠剤が口の中やのどに残っていることがあります。そこで嚥下障害 のある高齢者向けに、最近では内服すると口の中でラムネ菓子のよう に溶ける口腔内崩壊錠(OD錠)が広がっています。口腔内崩壊錠は 水なしでも内服できますし、水に溶けやすく経管栄養チューブからで
表3 簡易オーラルフレイルチェック票
2点 2点 2点 1点 1点 はい いいえ
1.半年前と比べて堅い物が食べにくくなった。 2.お茶や汁物でむせることがある 3.義歯を入れている 4.口の乾きが気になる 5.半年前と比べて外出が少なくなった 6.さきイカ・たくあんくらいの堅いの食べ物を噛める 7.1日に2回以上歯を磨く 8.1年に1回以上歯医者さんに行く
1点 1点 1点
いくつ当てはまりますか? 合計0~2点でオーラルフレイルの危険性は低く、3点で危険性があり、4点以上 は危険性が高くなります。また1点上がるごとに4年後に要介護になるリスクが7%ずつ上がります。
(東京大学高齢社会総合研究機構 田中友規,飯島勝也)
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も投与できます。ただし口内の粘膜からお薬が吸収されるわけではあ りません。ですから効果がふつうの錠剤より早く現れるということは ありません。お薬のなかでもとりわけ心臓や血圧のお薬には高齢者の 嚥下機能を考慮した口腔内崩壊錠が最近増えてきています。オーラル フレイルは全身的なフレイルと並行して進んで行き、心臓病や脳血管 障害のリスクも増えていくとされています 図7 。またフレイル予防 のために運動をおこなうにもエネルギーとなる食事をきちんと摂る上 でオーラルフレイルの予防は欠かせません。オーラルフレイルはフレ イルとセットで予防することを心がけましょう 表3 。「最近むせやす くなった」、「食べこぼしが増えた」、「軟らかいものだけ食べるよう になった」、「滑舌が悪くなった」と感じる方には自宅でもできるプ ログラムがお勧めです 図6 。入院中に摂食嚥下リハビリテーション をおこなった方も退院後に自宅で簡単にできるオーラルフレイル予防 のプログラムを続けることが大切です。
第 3 章 高 齢
者の
身
体
機
能
図7 健康余命と咀嚼の関係
20
よく噛める 噛めない
健
康
余
命
10
年
かむ力が衰えると、心臓病・脳卒中リスクが5倍以上となる。 那須郁夫ら;全国高齢者における健康状態別余命の推計(咀嚼能力との関連) 日本公衆衛生雑誌 53(6),411-423,2006-06-15 65 0 70 75 80 85 (歳)
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まとめ 筋肉は運動以外にも過剰な血液中のブドウ糖を取り込んだりするさ まざまな働きがあります。特に下半身の筋肉は歩くことにより血液や リンパ液を心臓に戻す「第二の心臓」としても働きます。しかし筋肉 は加齢とともに少なくなり筋力も衰えます。近年、サルコペニアやフ レイルが問題となっています。低栄養による筋肉量の減少はサルコペ ニア、加齢による全身的な脆弱状態をフレイルと呼びます。フレイル はサルコペニアやオーラルフレイルなどの身体的な要因、抑うつや認 知症などの精神・心理的な要因、独居などの社会的な要因が関係した 病態といえます。早めに介入して要介護状態となるのを未然に防ぐこ とが大切です。骨粗しょう症は骨折しなければ無症状ですが、一度 骨折すると(脆弱性骨折)活動量が低下するために骨の脆弱性が進 み、骨折リスクは増大して骨折の連鎖を引き起こしてしまいます。骨 粗しょう症にも生活習慣が大きく関係します。バランスのよい食事と 骨を適度に刺激する運動を欠かさず、定期的な骨密度の検査を受けま しょう。 筋肉は運動に必要な臓器であるばかりでなく、さまざまな生理活性物質を分泌し ています。これらの物質はミオカイン(マイオカイン)と総称されます。ミオやマイオは 筋肉、カインとはさまざまな役割を果たす物質という意味です。ミオカインにはさまざ まな物質が含まれ、筋肉が必要以上に発達してエネルギーが浪費されるのを防ぐミ オスタチン、炎症を誘導するTNF-α、免疫細胞の暴走を抑えるIL-6、抑うつ気分を改 善するBDNF、認知症の予防効果があるIGF-1などが知られていますが、まだ詳しい 作用が分かっていないミオカインもあります。健康維持や老化予防に関する運動の 効果は、近年このミオカインで説明されることも多く、逆にフレイルやサルコペニアで はミオカインの効果が期待しにくいと考えられます。 トリビア❶ 6 筋肉が出すシグナル
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第 3 章 高 齢
トリビア❷
サルコペニア・フレイルでの食事
高齢者の食事はあっさりとした低カロリーの献立になりがちです。さらにオーラル フレイルがあると噛む力も弱くなって軟らかいものばかり食べるようになります。確か に生活習慣病のある中高年の方には低カロリーで糖質を控えた食事がおすすめで す。低カロリー食は短期減量法としても効果があります。しかし高齢者のサルコペニ アやフレイルが増えて、これらが感染症・糖尿病 トリビア ❸ ・心臓病とも関係するこ
者の
身
体
機
能
とが明らかとなった現在、糖尿病の方に限らず高 齢者の方でも十分にとることをすすめられている 栄養素はタンパク質です。動物性タンパク質(お肉 や魚)と植物性タンパク質(豆腐や納豆)はバラン スよくとるように心がけましょう。腎機能が低下して いるために食事でタンパク質を制限されている方 を除けば、広く高齢者の方におすすめなのは高タ ンパク・低糖質食です。
トリビア❸
サルコペニアと糖尿病
従来、糖尿病は肥満者に多く、内臓脂肪が関係している生活習慣病の代表格でし た。しかし最近、わが国では人口の高齢化にともなって、サルコペニアの高齢者に糖 尿病が増加しています。肥満者に多い糖尿病がサルコペニアでみられることを不思 議に思われるかもしれません。高齢者ではインスリンの分泌が低下することに加え て、サルコペニアになると筋肉量や体重が減少します。筋肉は血液中の糖分をたくわ えるはたらきがあり、血糖を調節する役割があります。第1章で述べた血糖値スパイ クも防いでくれます。サルコペニアでは糖分をたくわえる筋肉の量が減るわけですか ら、血糖値も上がりやすくなって、糖尿病のリスクが高くなります。さらにインスリンは 筋肉を維持するうえでも重要です。筋肉にはたらくインスリンが不足するとサルコペ ニアも進行します。高齢者のサルコペニアと糖尿病の両方をセットで予防するには、 タンパク質の豊富な食事と運動習慣の組み合わせがとても大切なのです。
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第 4 章 高齢者 の 心臓病 この章は、いよいよ本題の心臓病についてです。心臓病 にはさまざまなものがあります。心臓病は加齢にともなっ て多くなると考えたほうがよいでしょう。加齢にともなっ て心臓や血管に好都合なことが増えることは、残念ながら ないからです。心臓の筋肉(心筋)には次第に線維組織が 増えたり(線維化といいます)、アミロイドという成分が 沈着すると収縮する力が弱くなります。心臓の弁はゆるや かに加齢変性して、弁は狭くなったりゆるみがでてきます。 血管はやがて動脈硬化を起こして狭くなったり閉塞したり します。ここではシニア世代の方に多い代表的な心臓病と それに対する治療法を取り上げたいと思います。 …
心筋梗塞 心臓が全身に血液を送り出すポンプとして働くためには莫大なエネ ルギーが必要です。そのエネルギーは血液中にある十分な酸素や栄 養素を利用して作られています。そしてその血液を心臓へ運ぶ血管 は、大動脈の起始部から枝分かれして心臓を包み込むように走る冠動 脈と呼ばれる血管です 図1 。心臓をやしなう動脈で、まさに命綱と いえるでしょう。ところがこの冠動脈が動脈硬化を起こすと狭くなっ たり、時には閉塞することがあります。冠動脈が狭くなり(狭窄と呼 びます)、心臓への血流が不足して心筋が障害をきたす病気を狭心症 といいます。また冠動脈の閉塞により血流が無くなると心筋は部分的 に死に至ります(壊死(えし)といわれます)。このような病気を心 筋梗塞といいます 図2 。狭心症や心筋梗塞を合わせて虚血性心臓病 といいます。 多くの狭心症では労作時に胸痛が起きます。狭心症の胸痛は、広 1
図1 心臓を栄養する冠動脈
大動脈 右冠動脈
左冠動脈
左冠動脈 回旋枝 左冠動脈 前下行枝
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く前胸部が締め付けられるような痛みが5~15分程度続いて、安静に よって軽快します。重い物を運んだり、急ぎ足で階段を上がったりす ると、心臓の仕事量が増えますので、狭心症の発作が起こりやすくな ります。このようなタイプの狭心症を労作性狭心症といいます。一方 で夜間や早朝などの安静時に起きる狭心症もあり、安静時狭心症とい われます。こちらは冠動脈のけいれんによって起こり、心筋梗塞に移 行しやすいため、お薬で十分に狭心症の発作をコントロールする必要 があります。ニトログリセリンという舌下錠は狭心症の発作を軽減さ せるのに有効です。病院で狭心症と診断されニトログリセリンの舌下 錠を処方されている方は、いつでも使えるように身の回りに置いてお くことが必要です。 従来からこの冠動脈が動脈硬化を起こしやすい危険因子というもの が知られています。①高血圧、②糖尿病、③脂質異常症、④肥満、⑤ 喫煙、⑥家族歴などです。これらの多くは生活習慣病と呼ばれるもの ですから、虚血性心臓病を予防するには第1章で述べた日頃の生活習 慣がいかに大切かがお分かりいただけるでしょう。狭心症による心筋 図2 心筋梗塞
第 4 章 高 齢
者の
心
臓
病
動脈硬化を 起こした 冠動脈
血栓 (血液の固まり) 壊死(えし) した心筋 冠動脈
57
図3 冠動脈形成術
動脈硬化プラーク、 コレステロール ステント
ステントを 血管内に留置 ステント留置術
治療後
治療前 (狭窄病変)
バルーン拡張術
のダメージは可逆的で元に戻りますが、心筋梗塞では非可逆的で心筋 は壊死したままです。心筋梗塞が起きると突然、激しい胸痛が15分 以上続きますので、心筋梗塞では直ちに救急車を要請することが何よ り大切です。冠動脈が閉塞している時間が長いほど梗塞の範囲は広が ります。そこで心筋梗塞では、なるべく早くカテーテル治療により 冠動脈を再疎通することが必要です。閉塞した冠動脈をバルーンで 再疎通した後に、ステントを留置するのが最近の一般的な治療法で す 図3 。カテーテル治療が普及して心筋梗塞の救命率は大きく向上 しました。心筋梗塞の患者さんが救急病院へ到着(ドア)してから冠 動脈のカテーテル治療(バルーン)を始めるまでの時間(ドアトゥー バルーン)を重要視しているのはこういう理由からです。再疎通療法 までの時間が長くなると命を落としたり、救命できてもその後に不整 脈や心不全などの合併症が増えたり、社会復帰も遅れることになりま す。ステントを留置された方は、ステントが冠動脈に馴染むまでの期 間に、抗血小板薬(いわゆる血液サラサラのお薬)を内服してもらっ ています。治療法が進歩した今でも心筋梗塞は高齢者にとっては命に かかわる危険な病気です トリビア ❶ 。 虚血性心臓病の危険因子を述べましたが、性格や行動パターンも狭 心症や心筋梗塞に影響します。以前はタイプAと虚血性心臓病の関連 が米国で指摘されていました。タイプAとは活動的、攻撃的、挑戦的 な性格のことです。競争心や対抗心が強い一方で責任感も強く、管理
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職に向いているともいえます。一方のタイプBはのんびりとマイペー スで内向的なタイプです。血液型の話ではありません。常に心臓を叱 咤激励して生活しているタイプAの人では、心臓の負担は相当なもの でしょう。ところがこれは日本人には必ずしも当てはまらないようで す。国民性や文化の違いが影響しているのかもしれません。一方で、 抑うつや絶望感、無力感などの否定的な感情を自身で抱え込む性格の 方が心臓や血管によくないことがわかってきました。東日本大震災の 避難所で虚血性心臓病が多発したことは良く知られています。抑うつ 状態では運動不足になったり、生活習慣が乱れやすいから、というの はよくある説明ですが、そればかりではありません。抑うつ状態は自 律神経のバランスを乱すので、心拍数は増加し、血圧は上昇します。 またストレスホルモンが過剰に分泌されますが、これは血圧を上昇さ せて、血管壁の緊張を高めます 図4 。またケガをした時に出血を止 めるはたらきをする血小板のはたらきがストレスによって活発になり ますから、血液中で血液の塊(血栓といいます)が出来やすくなりま す。これらは全て心臓に過度の負担をかけたり、心臓へ酸素や栄養を 補給するための冠動脈を通した血液循環を阻む方向にはたらきますか ら、虚血性心臓病が起こりやすくなります。
第 4 章 高 齢
者の
心
臓
病
図4 抑うつ状態は心臓に無理をさせる
ストレスホルモンの増加 (コルチゾール) 自律神経のアンバランス (交感神経の活性化)
心拍数増加
血圧上昇 血管収縮
抑うつ状態
心臓への 負荷増大 心臓の 虚血
血栓の形成
血小板の活性化 生活習慣の悪化 運動不足・喫煙・ 飲酒・怠薬
体重増加
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心不全 心臓は昼夜を問わず全身に血液を送り出すポンプとして働いていま す。心不全とは心臓がポンプとして正常な役割を果たせなくなった 病態です。あくまで病態ですから心不全とは特定の心臓の病気の名 前ではありません。ほとんどの心臓病は最終的に心不全をきたしま す。したがって心不全は多くの心臓病の終末像ということができま す トリビア ❷ 。心不全では心臓が送り出す血液の量が体にとって足 りなくなります。そうすると体は重要な臓器(脳や内臓)に優先的に 血液を回して優先順位の低い筋肉などの血流量は低くなります。した がって心不全の人の筋肉は萎縮し代謝が落ちて栄養が悪くなります。 心不全には心臓リハビリテーションが必要です。心臓リハビリテー ションにより、サルコペニアやフレイルによる筋肉の萎縮が改善する ことも期待されます。心不全ではからだの水分量やミネラルのバラン スを保つホルモンにも異常をきたすために足がむくんだり、尿量が少 なくなります。食欲もなくなり、息切れがしたりつねに倦怠感を覚え ます。さきほどの心筋梗塞では発症して早期に行うカテーテル治療に より救命率が大きく向上したことをお話しました。心筋梗塞で救命さ れる方は確かに増えましたが、その後長く普通の生活が出来ていたの に次第に心不全になってきたという方が、最近多くなりました。 心不全が進行すると入退院を繰り返すようになりますので、家族の 方の心労や経済的な負担も大きくなります。第3章でフレイルのお話 をしましたが、心不全の方の半数近くにフレイルがあるという報告も あり、フレイルがあると心不全で再入院する場合が多くなると言われ ています。心筋梗塞の危険因子のひとつに肥満があります。ところが、 心不全になるとむしろフレイルによる体重減少が予後を悪くするので す。これは「肥満パラドックス」といわれます。どうしてこのような 2
60
第 4 章 高 齢
図5 心不全の肥満パラドックス
インスリン抵抗性 交感神経の活性化 心不全
者の
心
臓
病
炎症
貧血
食欲低下
タンパク合成の低下
脂肪の減少
筋肉の減少
筋力の低下 運動耐容能の低下
体重の減少
パラドックスが起きるのでしょうか。心不全では自律神経の影響(と くに交感神経)や全身性の炎症、インスリン抵抗性などからタンパク 質の合成が抑えられ、筋肉量や脂肪量が減少しています。さらに心不 全では貧血も見られやすく、筋力低下や貧血がますます心不全患者さ んの運動能力を低下させます 図5 。このような悪循環を断ち切る意 味でも医学的な心不全管理に加えて適切な栄養管理と段階的な心臓リ ハビリテーションが大切といえます。 わが国では新たな心筋梗塞の発症数は頭打ちですが、超高齢化にとも なって心不全患者は毎年1万人ずつ増えており、2030年には130万 人になると予想されています。これを「 心不全パンデミック 」といい ます。日本人の死因のトップは悪性新生物(がん)で、次いで心疾患 (高血圧を除く)です。この心疾患の終末像が心不全であることを考 えると、「 心不全パンデミック 」という言葉を実感としてとらえることがで
61
きます 図6 。最近 の心不全のステー ジ分類では、心不 全の症状がなくリ スクがある段階で、 すでにステージA、 Bです。ステージ C、D段階の心不全 では急な心不全状 態の悪化を繰り返 しかねません 図7 。 一説には心不全は がんより予後が悪 いともいわれてい
図6 心不全パンデミック
暴飲暴食
ストレス
風 邪
過 労
心不全
先天性 心疾患
弁膜症
虚血性 心疾患
心筋症
高血圧
ます。そこで最近では、難治性の心不全に対する緩和ケアも行われて います。がん以外で緩和ケアが薦められるのは時代の変化ですが、患 者さんや家族の方々にもその意識が浸透していくのはこれからかもし
心不全のリスク状態 図7 心不全のステージ分類 身 体機 能 ステージA
症状のある心不全
ステージB
ステージC
ステージD
慢性心不全 の急性増悪
● 高血圧 ● 糖尿病 ● 肥満 ● 動脈硬化など
狭心症 心筋梗塞など
心臓突然死
時間
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れません トリビア ❸ 。高齢者の心不全は非典型的で重症になって診 断されることが多く、多臓器(慢性腎臓病、閉塞性肺疾患、貧血な ど)の機能が低下して治療に苦労することが多いですが、最近の心不 全のお薬は日進月歩です。病院からのお薬をきちんと内服して、毎日 の体重、血圧、脈拍などを心不全手帳に記録して 図8 、息切れやむ くみがひどくなったり、疲れやすくなれば、すぐにかかりつけの医療 機関に相談することが大切です。心不全の方は食事(減塩)・規則的 な軽い運動・十分な睡眠・ストレスをためないことなどきめ細かな日 常管理を怠らないようにしましょう。大きな災害では心筋梗塞が増え ることを述べましたが、心不全も同様です。抑うつ状態になると自律 神経やさまざまなホルモンを通して血圧や心拍数が上がりますので、 心臓への負担が増して心不全は悪くなります。日頃の災害対策は、心 臓病の方にとっては、とりわけ大切といえるでしょう。
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臓
病
図8 心不全手帳
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不整脈 第2章で述べましたように、心臓はポンプとして律動的に収縮する ために電気の力を借りています。病院で行う心電図検査は、文字通り、 この心臓の電気をからだの表面から記録する検査です。右心房にある 洞房結節から電気が発生し、これが刺激伝導系(第2章 図4 )という 電気ケーブルを伝わることによって心臓は律動的に収縮することがで きます。これを一分間60~100回、規則的に繰り返す場合が正常洞 調律です。不整脈とは幅広く言えば、心臓がこの正常洞調律にない場 合すべてを指します。したがって 表1 の不整脈の分類は詳細な医学 3
表1 不整脈の分類 不整脈の発生部位 不整脈の種類
特 徴
運動や緊張、貧血や発熱などでも みられる
洞頻脈
洞調律の異常
洞徐脈
アスリートでもみられる 高度な洞徐脈では ペースメーカー治療が必要
洞不全症候群
心房期外収縮
器質的な心臓病がなくてもみられる 持続するならば治療が必要な不整脈 高齢者に多く治療を要する不整脈 心臓手術後にも多く治療を要する 不整脈 器質的な心臓病がなくてもみられる
上室頻拍 心房細動
心房の不整脈
心房粗動
心室期外収縮
心室の不整脈
心室頻拍 心室細動
危険な不整脈
非常に危険な不整脈
完全房室ブロックでは ペースメーカー治療が必要
伝導障害 房室ブロック、 脚ブロックなど
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的分類ではなくおおよその分類です。一分間100回以上の洞調律(洞 頻脈)や60回未満の洞調律(洞徐脈)も厳密には不整脈と言えます。 しかしこれらは病的な意義が少ないために臨床上に問題になることは ありません。緊張すると心拍数が上がったり、アスリートでは安静時 の心拍数が少ないのはよく経験するところですし、病気とは考えにく いからです トリビア ❹ 。 期外収縮もよほど頻発しなければ大きな問題ではありません。徐脈 性の不整脈や伝導障害は第5章のデバイス治療に譲るとしまして、頻 脈性不整脈(上室頻拍など)は、これまで薬物治療が一般的でした。 抗不整脈薬とよばれるお薬は不整脈を予防したり、停止させるための ものです。これに対して最近行われているカテーテル治療は、不整脈 の病巣をピンポイントで焼灼(しょうしゃく:アブレーション)した り、線状に隔離する非薬物治療です。したがってこのカテーテルアブ レーションは、不整脈の原因となる部位をなくす根治療法といえま す 図9 。治療適応の年齢的な上限は特にきまっていません。高齢で
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図9 頻脈性不整脈に対するカテーテルアブレーション
通電用電極板
高周波 発生装置
カテーテル
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も不整脈のない健康な生活を送られたい方や、不整脈の発作が出ると 心不全を繰り返すような方は、カテーテル治療を検討されてもよろし いかと思います。 不整脈のアブレーション治療で最近進歩が著しいのは、心房細動と よばれる不整脈の治療です。心房細動ではヒトの心臓の補助ポンプで ある左右の心房が小刻みに震えるような動き(細動状態)をしていま す。心室は正常な収縮と弛緩をしていても、規則的なリズムを保てな い状態です。心房細動は直ちに命にかかわる不整脈ではありません。 しかし心不全を引き起こしたり、認知症にも関係しています。何より 怖いのは、細動状態の左心房内の血栓(血液の塊)が全身性の塞栓症 や脳塞栓を引き起こすことです。この心原性の脳塞栓は、予後が悪く 社会復帰も困難ですから、心房細動は早期発見が大切です。社会的な 著名人がこの病気で倒れたことから多くの方が知る病気となりました。 心房細動の方は動悸やめまい、息切れを感じることもありますが、自 覚症状がなくて健康診断で偶然見つかる場合もあります。脳塞栓を起 こした後に初めて見つかることさえあります。自分で検脈を行うと脈 が全く不規則だったり、速すぎて数えられなかったり、家庭用の自動 血圧計で血圧を測ると心拍数が常にエラーと表示される場合は心房細 動を疑いましょう。最近はスマートウォッチが普及しています。ス マートウォッチが心拍不整を表示する場合も心房細動である可能性が あります。心房細動になるとさまざまなデバイス治療(第5章)の適 応も狭くなってしまいます。心房細動のカテーテルアブレーションは 日進月歩です。従来の高周波通電による焼灼以外に、最近ではバルー ンテクニック(ホットバルーンやクライオバルーン)やレーザー焼灼 が行われています。心房細動が生じた場合、カテーテルアブレーショ ンを早めに行う方が効果は大きく、再発も少ないことが明らかとなっ ています。心房細動と診断された場合には、是非早めに専門医の先生 にご相談下さい。
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第 4 章 高 齢
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心臓弁膜症 心臓には大動脈弁、僧帽弁、肺動脈弁、三尖弁という四つの弁があ ります(第2章 図3 )。心臓弁膜症はこれら心臓の弁のいずれかまた はいくつかが機能異常を起こす病気です。心臓の弁は本来心房から心 室へ、または心室から動脈へ血液を一方向に駆出する役割をしていま す。したがって弁の機能異常とは、この一方向性の血液の駆出がうま くいかない状態です。具体的には、弁の狭窄(弁が狭いため弁を通る 血液の駆出が困難になる)か、弁の閉鎖不全(弁が緩いため弁を介し て血液の逆流が生じる)がおきます。心臓弁膜症の原因は多岐にわた ります。弁やその支持組織が硬化すると狭窄をきたしますし、脆弱に なると閉鎖不全をきたします。先天性の原因や外傷(胸部を強く打撲 した場合など)で生じることもありますし、他の心臓病(感染性心内 膜炎や心筋梗塞)が原因で発症することもあります。私が学生の頃に は、心臓弁膜症の多くはリウマチ性心臓病によるものでした。子供の 頃に急性リウマチ熱にかかるとその後心臓の弁がゆっくりと変性して、 大人になってから心臓弁膜症と診断され、投薬や弁置換術をされてい ました。ところが現在は高齢化社会を反映して、加齢にともなって弁 が変性したり、石灰化して心臓弁膜症となるケースが圧倒的に多くな りました。 心臓弁膜症では、弁の機能不全により心不全が起きないようにする ことが大切です。まずお薬による治療を行います。お薬で弁の機能不 全を直接治すことはできません。弁の機能不全があってもお薬で心臓 の負担を軽くしてあげるわけです。しかしお薬に抵抗性の心不全をき たしたり、心臓弁膜症が狭心症や失神を生じる状態では、弁の修復が 必要です。心臓の弁の形成術や置換術はこれまで人工心肺を用いた開 胸術によって行われてきました。しかし開胸術は、高齢者には体力を
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図10 経カテーテル大動脈弁留置術
損なう大手術ですし、術後の体力の回復も遅れ、在院日数も長くな ります。そこで最近ではカテーテル手技によって僧帽弁閉鎖不全症 を治療したり(MitraClip)、大動脈弁狭窄症に対して人工弁を留置 したり(経カテーテル大動脈弁留置術、Transcatheter Aortic Valve Implantation:TAVI)することが可能になりました 図10 。特に大動 脈弁狭窄症はかなり進んでから診断されることが多く、狭心症や失神、 心不全を起こすようになるとその後の生命予後は限られるとされてい ます。そこで開胸下での大動脈弁置換術が困難な高齢者に対しても TAVIは比較的安全に行われる様になり、今後ますます普及して行くこ とが期待されます。心臓弁膜症は自分では気づきにくい病気です。疲 れやすいと「年だから無理をしないでおこう」と思ったり、症状を自 覚しない場合が少なくありません。第3章で述べたフレイルにも似た 紛らわしい病気です。これまで歩けた距離を歩いて息が切れたり、足 のむくみが目立ってきた時は、専門の医療機関を受診しましょう。
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心臓病と リハビリテーション
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リハビリテーションというと、脳卒中や骨折の患者さんが自宅復帰 や社会復帰に向けて理学療法士の指導で運動を行う姿をイメージしま す。確かにリハビリテーションが治療の一環として有効であると認識 されていた病気や障害は、以前には限られていました。しかし現在で は、次第にリハビリテーションが医療機関だけでなく地域や行政、教 育現場にも浸透してきています。これにはリハビリテーション医学の 知見が蓄積されたり、産学連携でリハビリテーションの新たな機器が 開発されたり、健康運動指導士などのリハビリテーションに関連した 新たな職種の人材育成が進んだことがあげられます。 医療機関で行われるリハビリテーションの対象となる病気も今では 大きく広がっています 図11 。心臓リハビリテーションはほぼ全ての 心臓病がその対象となります。心臓病だけでなく閉塞性動脈硬化症と いわれる足の血行障害や、神経調節性失神といわれる自律神経の反射
図11 リハビリテーションの適応の拡大
内部障がい
脳血管障がい 脳外傷 脊椎損傷 小児疾患 四肢切断
骨関節疾患 関節リウマチ 神経筋疾患 心臓疾患 呼吸器疾患 摂食嚥下障がい
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図12 心臓リハビリテーションの流れ
心臓リハビリテーション (入院リハビリ→外来リハビリ)
緊急入院 急性期治療
運動療法、食餌療法 禁煙指導、服薬指導 復職支援、心理相談
社会復帰 職場復帰 再発予防
心筋梗塞、狭心症 心不全悪化、心臓手術
異常が原因で失神をくりかえす病気にもリハビリテーションが有効で あることが分かっています。心臓リハビリテーションは単なる運動療 法ではありません。運動療法に加えて医師や看護師が冠動脈の危険因 子(高血圧、糖尿病、脂質異常症、肥満、喫煙)を生活指導で是正し たり、栄養士が食事指導をしたり、薬剤師が服薬の指導を行います。 生活習慣の改善や適切な食事指導は腸内細菌叢(腸内フローラ)にも 好ましい影響をおよぼします トリビア ❺ 。心臓リハビリテーション には心臓や肺、筋肉のはたらきを高めて、心筋梗塞の再発を予防する 効果もあります。大切なのは多職種のスタッフが、多面的に介入して、 最終的には患者さんの社会復帰や職場復帰を目指すことです。 このように包括的な心臓リハビリテーションのプログラムに参加さ れた方々の間にはひとつのコミュニティが出来ます。そこでのコミュ ニケーションは抑うつ気分を解消してくれますので、フレイルや認知 症の予防にもつながります 図12 。特に大きな心臓病がなくても、運 動不足で少々血圧が高いというシニア世代の方も、仲間づくりのため に参加されてはと思います。また心筋梗塞を患うと気分が落ち込んで 抑うつ状態になったり、社会復帰に自信を無くすものです。しかし心 臓リハビリテーションで無事に社会復帰した周囲の人を目の当たりに
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すると自信がついてきま す。心臓リハビリテー ション室には、患者さん のロールモデルとなるシ ニア世代の方が多数おら れるのも魅力のひとつで す。
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医師
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看護師
理学療法士
栄養士
社会福祉士
薬剤師
臨床工学技士
心臓リハビリテーションにおける多職種連携
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まとめ 心臓を栄養する冠動脈が閉塞して心筋が壊死(えし)する病態は心 筋梗塞とよばれ、高血圧、糖尿病、脂質異常症、肥満などの生活習 慣病や喫煙などの過去の間違った生活習慣が関係するとされていま す。あらゆる心臓病の終末像である心不全は、心臓がポンプとしての 機能を果たしにくくなった病態で、今後さらに増加すると予測されま す(心不全パンデミック)。超高齢化社会のわが国では心臓弁膜症も 増えていますが、高齢者に見合った新しい治療法も普及しつつありま
す。日本人では抑うつ気分などの否定的な感情 が心筋梗塞や心不全と深く関係しているようで す。心臓リハビリテーションは心臓病全般に広 く行われており、抑うつ感情も解消して自宅退 院や職場復帰、社会復帰に役立っています。
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トリビア ❶
高齢者の心筋梗塞
心臓病の治療は従来から救命に重点が置かれていましたが、心臓病患者さんの 高齢化や心不全の難治化により質の高い緩和ケアが求められる時代となりました。 患者さんや家族の心身の苦痛を最大限和らげて、社会心理的な問題に寄り添い、患 者さんの人生を思いやれる医療は緩和医療とよばれます。患者さんの意思決定能力 が低くなっていく場合もありますから、リビングウィル(元気なうちに自分の気持ちを 打ち明けること)と呼ばれる意思表示を行い、普段から繰り返し家族や関係者と「人 生会議」を行うことは大切です。最初は抑うつや不安から「人生会議」に参加されな い患者さんも話の成り行きで今後の心不全の治療に話がおよんで、自身の希望を 打ち明けたら心の負担が取れたという例もあります。病状や治療の経過で患者さん の気持ちも変わることがあります。「人生会議」は繰り返し行いましょう。アドバンスト ケアプラニング(ACP)は医師、看護師、薬剤師、理学療法士や作業療法士、カウンセ ラー、管理栄養士、社会福祉士などが協働で患者さんと家族の希望を確認しながら 患者さんが自分らしい最後を迎えるための意思決定を支援するためのものです。 トリビア ❸ 心不全の緩和ケア 心不全とは心臓のポンプ作用が弱くなった状態です。心臓は収縮と拡張を繰り返 すことでポンプとして機能していますので、心不全では収縮が弱いタイプと拡張が上 手くいかないタイプの二通りがあります。収縮が弱いタイプの心不全は狭心症や心 筋梗塞を経験された方に多く、拡張が上手くいかないタイプの心不全は高血圧など 生活習慣病の方に多いとされています。 高齢者の心筋梗塞にはいくつかの特徴がみられます。第一に高齢者では心筋梗 塞に特徴的な胸部症状が乏しいことです。症状が非典型的で胸痛がない場合もある ので診断や治療開始の遅れにつながります。胸痛のない無痛性心筋梗塞は糖尿病 の患者さんに多く見られます。第二に慢性疾患や認知症などの併存疾患、多臓器の 機能が低下していることがあげられ、これらが心筋梗塞の治療にも影響することが あります。第三に高齢者の心筋梗塞では相対的に女性患者さんの比率が高くなりま す。女性の体内のホルモン環境が加齢とともに変わることが影響していると考えられ ます。心筋梗塞の非典型的な症状として、胸痛ではなく背中や首、肩、あご、歯の痛み を訴えられることもあり、関連痛とよばれています。 トリビア❷ ふたつのタイプの心不全
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第 4 章 高 齢
トリビア ❹
ヒトの心拍数と寿命
第2章のトリビアでご紹介した「ゾウの時間 ネズミの時間 サイズの生物学」(本川 達雄 著, 中公新書)では動物は種を問わず、心拍数一定の法則があるらしい、という ことでした。これをヒトに当てはめると心拍数の比較的多いヒトは短命、逆に心拍数 の少ないヒトは長寿ということになりそうです。確かにそういう場合もあるようです が、ヒトの場合は生活スタイルや社会環境などが広くそのヒトの心拍数に影響してい るようです。心拍数が多いヒトは喫煙者や肥満者にも多く、心拍数より生活習慣が寿 命に影響している場合も少なくありません。逆に安静時の心拍数を下げる意味で適 度な有酸素運動をしたり、ヨガやハーブなどで自律神経を整えれば、心拍数の低下 よりそれらの健康法が寿命にいい影響をおよぼす可能性もありますので、ヒトの心 拍数と寿命の直接の関係を解明するのは容易ではありません。 ヒトの腸管内には無数の細菌が生息しています。それらは種別にお花畑のように 群生していますから腸管内の細菌叢はフローラとも呼ばれます。これまでも善玉菌 (食べ物の消化吸収を促して便通を良くする細菌群)、悪玉菌(細菌毒素やガスを 発生させる細菌群)、日和見菌(健康な状態ではおとなしく抵抗力がなくなると悪い はたらきをする細菌群)と大きく三つに分類されてきました。しかし最近では、次世代 シークエンシング技術の進歩によってヒトの腸内フローラが(これまで分離培養が困 難であった細菌も含めて)網羅的にゲノム解析できるようになりました。またそれによ り腸内フローラが肥満や糖尿病などの生活習慣病や喘息などのアレルギー疾患に 深く関与していることが次第に明らかになりつつあります。さらに心不全や動脈硬化 の進展にも腸内フローラが一定の役割を果たすという研究が進められています。あ る種の腸内フローラ由来の代謝産物が動脈硬化を促進したり、炎症性サイトカイン を誘導すると心臓の収縮力を弱めたり、動脈硬化巣の被膜を不安定にさせます。そう すると心不全が悪化したり、心筋梗塞の発症に結びつくことが想定されます。また心 不全の患者さんでは腸の粘膜にもむくみがあると考えられています。それにより栄養 の吸収が悪くなったり、腸内細菌に由来する炎症を起こす物質が腸の粘膜を透過し トリビア ❺ 腸内フローラと病気
者の
心
臓
病
やすくなり、心不全を進行させることが想定されます。 心臓病をこのような腸内フローラから予防していくの は理にかなっているといえますし、医食同源という言葉 が新たな響きを持って聞こえてきそうです。 第1章で述べた食生活の工夫は腸内フローラの観点 からも大切な習慣といえるでしょう。
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